藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

言葉という道具

言葉は言霊という。
自分たちは何かを思い、考え、口にする。
特に対人でのやり取りはそうである。

口に出し、発した言葉は「意思を伝える」という命を持ってしまう。
これが言霊である。
ある単語やセンテンスの意味だけでなく、その背後に「発言者の意思」を帯びてしまう。
言葉のコミュニケートというのは、そういう刹那の恐ろしさをはらんでいると思う。

だから、言葉の行き違いでの意思の行き違いの例は後を絶たない。
良い例は外交である。
韓国の大統領が日本の天皇に謝罪を要求した、とかそれは「こういう意味だったのだ」とかいうやり取りは、言葉の帯びる寸鉄がいかに力を持っているのかということを感じさせる。
言い放った言葉は、弓から放たれた矢のように、一定の速度と方向性を持ち、相手に向かって飛んで行ってしまうのである。
当然相手方に何らかの反応をもたらす。

外交ほど一言一句が記録させなくとも、いやだからこそ自分たちの日常の会話も重要である。
例えば「意中の彼女」(ふるっ)に手紙を書いたり、声をかけたりする場合はいい。
「こう言えばどうなる、こう書けば伝わるかな」といろんな角度から吟味するから。

毎日交わす仕事先の人たち、同僚との会議。家族や友人との会話。
どんどん交わすコミュニケーションのうち、ほんとうにあらゆる角度から検討して「放たれた矢」は少ないように思う。

小さなところでは「ああいう答え方はなかったな」とか「どうしてもっと上手く言えなかったのか」という反省は数多い。


それはともかく。
そうした日常会話とは別の話で。
「ちょっと大事なこと」を決めたり、進めたりする時の話。
例えば、結婚する相手を決めて親に話をするとき、とか。
今の会社を辞めて転職する話を家族にするとき、とか。
自分の進路について親に話をする子供とか。


そうした時に、人は相手をストレートに思い、かなり直截的な発言をするものである。
「まだ独立なんて早いよ」とか
「今の会社の何が不満なの?どこへいっても嫌なことはあるよ」とか
「自分が認めない人とのお付き合いは許さん」とか
「そんな企画は成功しない、話にならん!」とか等々。

言葉は一時の感情を表してしまうが、少し時間をおけばずい分と大事な言葉たちなのでもある。
「もっと慎重に考えた方が」と言ってくれた人。
「まだお前には早すぎる」と言ってくれた先輩。
「辞めてしまえ、そんな会社」と言う家族。

それぞれが、それぞれの思いを発し、言葉となって突き刺さる。

自分の進路やこれからにとって"重要なこと"であればあるほどそうした「周囲の声」は重みがあるものである。(後から思い返せば)
「やりませんか」
「やめませんか」
そのシンプルな言葉の中には、いろんな思いが詰まっている。
後からそんなことを感じるのである。(しみじみ)

日常の会話はともかく。
そうした決断をするときに、周囲がくれる「いろいろなアドバイス」。
を大事にしたいと思う。
誰の発言、どれをとっても"その人の思い"が詰まっている。
そのどれもいい加減なものではない。
真摯な言葉ほど、後から思い返して噛みしめるのである。

"すべきか否か。それこそが思案である。"
シェークスピアはやはり文豪である。