藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

先を夢想してみよう

携帯電話が初めて商品化されたころの話は先日書いた。
意外に反響の声をもらったが、それにしても今は昔。

「携帯電話がポケットサイズになる」ということすら想像外だったのに、今はパソコンの存在にも疑問が湧いてきた。
スマートフォンがOSを搭載する"小さなパソコン"を標榜してから、もう「パソコン」の定義は「あってないようなもの」になってしまった。
もう「OSを搭載している」とか
「入出力のインターフェイスを備えている」とか
「ネットワーク機能を備えている」とか
「通信速度がメガBPSを超えている」とか、
あと「大きさがどのくらい」とかいうカテゴリーでしか商品の区別はなくなってしまった。

もうタブレットスマホか、ガラケーワンセグ端末か、デジカメか電話か、という垣根が消滅するだろう。
「そのデバイスは高速度通信が可能ですか?」とか
「そのデバイスは表示解像度が2000dpi以上ありますか?」とか
「そのデバイスの音質は25000Hzまでカバーされていますか?」とか
携帯端末はそのうちに性能本位で選択されるに違いない。

思えば究極のネットワーク社会とは、「そんな端末の携帯社会」だったようである。

だから「今」の先

かく言う自分もその一人。
最近はめっきり自分でexcel表計算をしなくなったら、もうPCは「一番の伴」ではなくなった。
結局、スマホタブレットがあれば長期の出張にも耐えうるのである。

i-Padを企画したジョブズは、そんな将来のネットワーク社会を見通していたのに違いない。
天才の恐ろしいところは、「発想の時点では、常人にまったく理解できないことをイメージしている」ということだろう。
まだこの先にさらなるデジタル化の進展があるかもしれない。
一度「何が未来に待っているのか」を考えてみるのはどうだろうか。