藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

遺伝子を決めるもの。

ソニーについて、元役員の久多良木氏のインタビュー記事。
読んでいて思ったのは「歴代続く革新力」を持つ企業というのは存在するのかどうか、ということ。
MBAの研究テーマみたいだが、結局少々型破りをする創業者と、その"起こり"を大事に育てること、そして育った企業を続けること、はそれぞれ別の能力で、だからそうしたことに適したスタッフが担当したりするのだけれど、最初の起業者が「退陣」する時点で実はその企業の"確定的な何か"は失われて行くのではないかと思うのである。

ソニーも創業時の三名が次々にリタイアしたときには、もうその「何か決定的なもの」は抜け落ちてしまっていたのではないかと感じる。
企業のステージを考える時にこうした視点は一つの重要な切り口になるのではないだろうか。
少し掘り下げて見たいと思う。

ソニーが革新力を失ってきた理由 久多良木氏に聞く



インタビューに答える久多良木健サイバーアイ・エンタテインメント社長=山本和生撮影

 【大鹿靖明】日本の電機産業の競争力が失われ、雇用不安が高まっている。社会や文化に大きな変化をもたらすイノベーション(革新)を起こせなくなり、海外メーカーの攻勢に押されたからだ。なぜそうなったのか、巻き返しの目はあるのか――。世界を席巻したソニーのゲーム機プレイステーションの「生みの親」として知られる久多良木健氏に聞いた。

 ――日本の電機産業になぜイノベーションが起きにくくなったのでしょう。

 「ソニーに入社して最初の10年間は、ホントに好きなことがやれた。ブラウン管テレビ全盛の時代だったが、平面テレビがやりたくて、当時は金(きん)より高かった液晶素材を買って小さな液晶テレビを試作した。これが入社1年目。そういうことを勝手にやらせてくれた。そのあと世界最初の電子カメラの開発にかかわった。それが4年目だった」

 ――自由に研究できたのですね。

 「もう毎日が楽しい。会社が大学の研究室の延長のような感じで。風呂と着替えで家に帰るぐらいだった。ところが、ある日『おや』と思うことがあってね。それが入社して10年経ったころのことだった」

 ――いったい何が?

 「新しいフロッピーの技術を考えて学会で発表し、他社に呼びかけて規格化しようとしたら、急に『やめたら』と圧力がかかった。聞けば、別チームが同じようなことに取り組んでいて大型商談中だった。私がやっていたのは、それよりもっと先進的な技術で……」

 「その後も、他社のゲーム機用にデジタル音源を開発していたら、またまた横やりが入った。複数の部門から『敵に塩を送るとは何事か』と」

 ――社内で芽をつぶしてしまう?

 「研究開発している人間は5年先、10年先を見ようとするものだが、会社は春モデルと秋モデルとか、目先のことしか見ようとしない。長期のロードマップ(工程表)を考えられる人、大きな流れを見通すことができる人が少ない。そこがアップル創業者のスティーブ・ジョブズ氏やアマゾン創業者のジェフ・ベゾス氏との大きな違いだ」

 ――なるほど。

 「それと、決めた通りでないと困るという人がたくさんいて。柔軟性や多様性に欠けるきらいがある」

 ――調和を乱す者を排除し、出る杭は打たれる?

 「出る杭の扱いに困る。戦後経済を支えた自動車や電機産業は、大量生産・大量販売モデルだ。すると複数の人が同じことをするのを貴び、他人と違う人間は困る」

 ――文化に根ざしているのでしょうか。

 「これは日本の教育問題に行き着く根深い問題だと思う。暗記中心やマークシート方式の答案。白い答案用紙に『自由に自分の考えを書きなさい』というのが少ない。(私は)算数で違う解き方で正解を出したら、先生に『キミは、おへそのついている場所が違うね』と言われた(笑い)。どうも肌が合わなくて、学校をやめておやじの印刷工場を継いだ方がいいかな、と思ったことさえあった」

 「こういう教育カリキュラムだと、(作業工程を効率化する)『カイゼン』はできてもイノベーションは生まれにくい。優秀なサラリーマンは生まれても、異質なベンチャー企業は生まれにくいのではないか」

 ――でも、久多良木さんが若いころは、イノベーションが起きる風土だったのでしょう。

 「戦後の焼け跡を復興させた創業家型経営者がまだ健在だったこともある。創業者はリスクを引き受けて勝負できる。ところがいまや、どこもかしこもサラリーマン経営者でリスクをとれない。役員会に諮っても、自分たちが聞いたことのあるような案件なら安心して通すけれど、初めて聞くようなアイデアだとまず門前払いとなる」

 ――製造や企画の現場はどうでしょうか?

 「社内が空洞化した印象も受ける。商品企画はコンサルタント会社に丸投げではないかと思う時もあるし、事業部も製造どころか開発の一部でさえも外注任せにしてきたせいか、自ら設計したり、プログラムを作ったりする人が少なくなった」

 ――久多良木さんが上に立ったとき、どう育もうとしましたか。

 「すごいことやっていても理解されない人は結構いる。そういう不遇の人をサポートした。イノベーションは後で気づけば、『あれがそうか』と思えるようなもので、ビジネススクールで教えられるようなものでもない」

 ――じゃあ日本の前途は暗い?

 「いや、そんなことはない。たとえば日本の食。こんなにクリエーティブで、多様性に富んだおいしい店がいっぱいある国は世界にないと思う。最先端のカジュアル衣料や素材産業、そしてコンテンツ制作に関わる現場など多様性に富むところでは、確実にイノベーションが起きている。日本全体がダメなわけでは決してない」

     ◇

 くたらぎ・けん 1950年生まれ。電気通信大卒業後、75年ソニーに入社。ゲーム事業を担う「ソニー・コンピュータエンタテインメント」を設立し、後に同社社長を経てソニー副社長。現在は人工知能を開発するサイバーアイ・エンタテインメントを創業し、社長を務める。

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■異能の人に自由を

 累計3億台強を販売したゲーム機プレイステーションは、日本の電機産業の「失われた20年」の中で数少ないイノベーションの成功例だった。その功労者が久多良木氏だ。

 小さいころからSF好きの彼が目指したのは、SF的なコンピューターとエンターテインメントの融合だった。ハードと娯楽、技術者とクリエーター、異なるものが出会い、新たなものが生まれる。世のイノベーションの多くはそうしてできた。スティーブ・ジョブズ氏は伝記の中で、自身が「文系と理系の交差点に立ち、両方が見えた」と印象的な言葉を残している。

 強い個性でイノベーションを成し遂げた久多良木氏だが、大組織のソニー副社長に就くとゲーム機のような力強いヒット作は生み出せなかった。久多良木氏が去った後、ソニーはさらに輝きを失っていった。

 横並びを排しリスクを取り、異能の人に自由を与える。いまの日本企業の経営に欠けているものである。