藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

データ、天下統一の意味について。

結局、ネット社会の恩恵に浴し、一番有り難いのは「データの統一」が成し遂げられたことであろう。
過去アナログカメラで撮っていた写真や、オーディオ、映画などのコンテンツはもちろん。
携帯電話が普及してからの写メや、大量のクリップ記事など、いろんなものがついに「クラウド」に格納されるようになった。
こうした「保存メディアの統一問題」というのはここ五十年で常に問題になってきたが、決着は「クラウド」だったのだと思う。
保存先は「ユーザーのデバイスではなかった」というのはちょっとした皮肉だけれど、それはともかく。

この”クラウド文化”は、「あらゆるデータと自分」というものの向き合い方を根本的に変えた、といえるのではないかと思うのである。

つまり、「統一されたストレージへの格納」というだけのことが、実は自分たちの「データとのつきあい方」を質的に変えてしまったような気がするのである。

言うまでもなくインターネットの普及やスマホの日常化は、かつてない多量のデータ取得を我々にもたらしてくれた。
「知識の保有こそが知性」だった数十年前の常識は、今や陳腐化している。
もう「知っていることはすごいこと」ではない。

この後に訪れる価値観は「どれだけ多量のデータを持っているか」ということではなく、
「どのようなデータと付き合っているか」という事になると思うのである。

昔は、一部の知識人だけが、自分なりの方法でデータを収集し、編纂し、さらにまとめて推論しながら新たな仮説などを立て、世に発表するといったことを行ってきた。

今はネットにアクセスできる誰でもが「同様な作業」ができる時代になっている。
学生であれ社会人であれ、リタイアした人であれ、誰もが等しく「情報に触れ、蓄積し、加工し、保存する」ということができるのである。

つまり、論文にせよ、ブログにせよ、ツイッターにせよ、フェイスブックにせよ、ネットのクラウド上に自分が残してきたデータたちが、自分のリテラシーそのものになる時代になっていると思うのだ。

自分は最近ブログをアップしていて思うのが、そんな「自分の興味の対象」のことである。
別に高級感がある必要はないと思うけれど、十年前に比べて「より深く、より核心的な考え方ができているかどうか」というようなことがとても気になるのである。

日々身近に起きている事への反応、だけではなく。
何か自分の精神性の表れ、のようなものになればいい、と思っているのだが、それには自分の書き溜めた物を「定点的」に評価していく必要があり、またこれはこれで面倒な作業である。

日々の周囲の報道にただ反応して「賛成」「反対」を言い放てばよいのではなく、「だから自分は何者なのか」ということと向き合わざるを得ない、デジタル社会のクラウドとは、そんな精神性を自分たちにもたらす存在なのではないかと思う。

なれ合いの陳腐化、は許されない時代なのである。