藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

中村紘子さん。

――40周年の時、「このごろ、少しピアノがうまくなってきた」と話していましたね

伝統やヨーロッパへのコンプレックスが吹っ切れ、表現に集中できるようになった頃です。どう演奏したいかがわかり、聴き手にも伝わるようになって。

この境地、に40年。
それも天才との誉れの高い人である。
つくづく習い事は難しい。(嘆)

それにしても「時代に恵まれた」と仰る中村さんだが

音楽を聴く、楽譜を読む、演奏する、そして作曲の基本も。
評論の吉田秀和先生、ピアノの井口基成先生、チェロの斎藤秀雄先生ら、若く優れた先生方が熱心に教えて下さいました。

それにしてもすげえキャスト。
この頃から、音楽教育というのはそれこそ4-50年かけて日本でも熟成してきたのだろう。
しかも常にヨーロッパを意識しながら。

私の至らぬところでもあるんですが、私の中で音楽の基礎と演奏技術がまったく結びつかなかった。振り返ってみると、実技の運指練習がどうしても中心で、演奏解釈や音楽の構造になかなか目が向かなかったように思います。

中村さんにそう言われては二の句がないけれど、音楽を学ぶということはこの両輪があって初めて成り立つのだ、ということを自分は最近知った。(嘆)
これがクラシックだけではなく、現代音楽とかジャズでも(恐らく)変わらない、ということがどうも音楽の本質のようである。
文学でも、その作家の時代背景とか、脚本や映画でも作家や監督の思想、のようなものは大事にされるのだろうか。
文学や映像作品は、より「作品単体への依存度」が高いように思うけれど、これまた「そちら」には疎いのでよく分からずに自分は現在に至っている。

――ピアノは井口愛子さんに師事したんですね
レッスンはものすごく厳しかった。一種の体育会的な、精神的にも肉体的にもすさまじいものでした。先生のお宅から駅まで、泣きながら歩いていました。私の生活すべてを、ものすごい圧迫感が覆っている。

才能のある人でもこれである。
お稽古は楽にはならないものなのだ。(つづく)

(人生の贈りもの)中村紘子(69):2



音楽教室 友だちとチャンバラ

 ――生まれは甲府市です

 甲府疎開先で、2歳の時に東京に戻りました。祖父も父も軍人でした。祖父は戦死、父母は私が幼い頃に離婚し、母は印刷会社を経営していました。

 ――1948年、桐朋学園音楽部門の前身「子供のための音楽教室」に入りました。1期生でした

 毎週土曜日の午後、東京家政学院の一室で音楽の基礎を学ぶ教室でした。家政学院に通っていたおばが新しく開講すると教えてくれて、幼稚園の代わりにピアノ科に通い始めました。敗戦という世界がひっくり返るような経験の直後でした。悲しい時もうれしい時も寄り添ってくれる、人生の友のような存在を娘に与えたいと母は考えたようです。

 ――どんな授業でしたか

 音楽を聴く、楽譜を読む、演奏する、そして作曲の基本も。評論の吉田秀和先生、ピアノの井口基成先生、チェロの斎藤秀雄先生ら、若く優れた先生方が熱心に教えて下さいました。私は一人っ子だったので、音楽の楽しさより、年の近い子どもたちと一緒にいられることに興奮しました。同期はちょっと年上のチェロ奏者、堤剛さんとか。みんなでいたずらの限りを尽くしました。裁縫台の横にあった竹製の物差しでチャンバラして全部壊したことも。室長の吉田先生が家政学院によく謝りに行かれたと後で聞きました。

 音楽の基礎教育と、ピアノやバイオリンの最新の実技を並行して教えていただきました。私の至らぬところでもあるんですが、私の中で音楽の基礎と演奏技術がまったく結びつかなかった。振り返ってみると、実技の運指練習がどうしても中心で、演奏解釈や音楽の構造になかなか目が向かなかったように思います。

 ――ピアノは井口愛子さんに師事したんですね

 レッスンはものすごく厳しかった。一種の体育会的な、精神的にも肉体的にもすさまじいものでした。先生のお宅から駅まで、泣きながら歩いていました。私の生活すべてを、ものすごい圧迫感が覆っている。古い師弟関係というか、当時はどの先生も似たり寄ったりだったようですが。

 年を重ねて自我が目覚め、演奏で自己主張をしようとしても、認めてもらえない。当時は数少ない外来ピアニストの演奏会を聴いて美しい音に感動し、まねしようとしても許してもらえない。

 ――それでも59年、日本音楽コンクールで史上最年少の1位となり、「天才少女」と呼ばれます

 慶応中等部3年の時です。「大学まで一貫教育だから、やりたいことに打ち込むにはいい」と先生方は寛大で。コンクールが学年末試験とぶつかってしまい、学校を休んだのですが、先生は「試験は適当な点をつけたから」。のんびりした時代でした。(聞き手・星野学)