藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

芸術という経験。

芸術家と話したり、また芸術の修行の話を聞くたびに「独創とそうでないこと」について考える。

記事にもある通り「音楽を学んだ学生は打たれ強い」ということならば、芸術は「最高の修行の場」なのではないだろうか。

つまり、一般的な学校のカリキュラム教育、というのは「ある囲まれた条件でのトレーニング」であり、その下界で起こる無規則な状況においてはかなり不利な気がするのである。

予め問題と解答が用意されているようなシチュエーションと違い、

「問い」も「解答」も「どちらもあなたが考えなさい」と言われたら、その自由さと大きさに絶句する。

全く正反対にも思える「芸術、と科学」はこれから興味深い融合をしていくのかもしれない。

パブロ・カザルスがチェロで奏でた"鳥の歌"は、「科学」と「芸術」と「文明」とそして「歴史」を広く見渡していたのかもしれない。

こんな動画が気軽に見られるのも凄いことだ。

鳥の歌 キャスター 国谷裕子

2016/10/12付

 「音楽を学んだ学生がその後、科学の道に進んだ場合、実験で多くの失敗を経験しても打たれ強い。音楽の練習は常につまずきや失敗の連続だからだ」。アメリカの著名な生化学者でチェロをジュリアード音楽院で学んだ経験のあるトーマス・コーンバーグ氏はこのように語った。

 科学者と芸術家というと一方は論理的思考で物事を探求しようとし、もう一方は感性によって育まれ、二つの領域は別々のものと考えられがちだが、先日、その両者が東京藝術大学で集い、重なり合う領域を探求する試みが討論と演奏により行われた。

 登壇した人々のほとんどが科学も音楽も深く学び体験していたが、世界的チェリストヨーヨー・マもその一人だった。ハーバード大学で人類学も学んだヨーヨー・マは「音楽と向き合う時、作曲家が何を伝えるために書いたのかを常に問い、気づきを求めている。そして演奏も科学と同じように実験を繰り返し、創意工夫を積み重ねている」と、チェロ演奏も交えながら熱っぽく語った。

 かつてレオナルド・ダビンチの時代、科学と芸術ははっきりと分離せず、総合的なとらえ方をされていたという。芸術家が科学的教育も受け、科学者が芸術的な教育も受けるなどして一人一人の視点が拡(ひろ)がったとき、そこにどんな果実が生まれてくるのだろうか。

 科学者と芸術家が領域を超えてつながり、互いの持っている知を能動的に伝えていかなくてはならないと話していたヨーヨー・マ、その言葉が、最後に演奏されたカタルーニャ民謡「鳥の歌」とともに今も響く。