藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

成らぬは人の成さぬなりけり

先日「なぜ今なの?と言う人」というタイトルでエントリーしたら、思いのほか反響をもらった。
思えば登山家や山をテーマにした書き物は多いが、山を目指す理由は「そこに山があるから」でしかないのだろう。(ということは「今でしょ!」というのにも同様に理屈はないのである)

糸井さんのブログに似た話題がアップしていたので紹介したい。
「なぜやるの?」に対して
「命までは取られない」との応酬。

ふつうの人の、ふつうの感覚からすると、
 だいたいのことは、怖い。
 ただ、絶対にうまく行くならやりたいと思ってる。
 そうじゃなかったら、やめておきたいと決めている。
 というわけで、たいていは「やめておこう」になる。

そうなのだ。
もし自分が巨万の富を持ち、あるいは富める平和な国の国王なら。
あるいはそれほどではなくても、将来に不安のない境遇にいたら。
そんな関係者が眉を顰(ひそ)めて「なんでそんなことを?」というようなことは敢えて指向しないしかもしれない。

ずっと、「やめておこう」を経験しているうちに、
 もう、ゆれることさえしなくなっていく。

そう、そうして、もう硬直して人間なら永眠してゆくのかもしれない。
そうした「あえて動かないこと」というのは実は老いの特権でもあるのかもしれない。
そういう落ち着いた姿、もありだとは思うけれど、やはり挑戦すること、変化すること、への気持ちは必要だと思う。
だってそれなしには、もう何も自分たちには良いところなんてないじゃない、とすら思う。

やらないで良かったね、ということと、
やったけど残念だったねということ。

だったら後者を選びたい。
そりゃ「やってよかったね」といつも言いたいけれど。
一度の人生、そんな筋書きを考えたりするのだった。

・勇気があるなぁと思える人が、よく言う。
 「いのちまでとられるわけじゃない」
 だれが最初に言ったのか知らないけれど、
 実にまったく、よくできたことばだなぁと思う。
 
 だいたい、なにかやるときには、怖いのだ。
 ただただ安心しきっているなんてこと、なかなかない。
 やったことがないことは、わからないことも多い。
 相手のいることならば、その力量の読みも必要だし、
 その相手の心づもりというものもある。
 とんでもない目にあうかもしれない。
 
 同時に、うまくいったときのことも思うわけで。
 さぞかしうれしいだろうなぁと、にまにましたりもする。
 想像する快感が大きいほど、心配になったりもする。
 
 ゆらゆらゆれちゃってるわけだ。

 ふつうの人の、ふつうの感覚からすると、
 だいたいのことは、怖い。
 ただ、絶対にうまく行くならやりたいと思ってる。
 そうじゃなかったら、やめておきたいと決めている。
 というわけで、たいていは「やめておこう」になる。
 ゆらゆらゆれちゃってるけど、
 そのゆれは、「やるぞ」のほうではなく、
 「やめておこう」のほうで止まるのである。
 
 ずっと、「やめておこう」を経験しているうちに、
 もう、ゆれることさえしなくなっていく。
 うまくいかなかったときに、
 どれほどのひどい目にあうか、
 なんてことも考えなくなってしまう。
 そのことに失敗したら、
 「いのちまでとられるわけじゃない」けれど、
 どれくらいの被害があるのか、
 それさえも考えなくなってしまうのだ。
 うまくいかなかった場合、どれくらいの目にあうのか。
 それをちゃんと考えてみると、
 あんがいたいしたことないと気づくこともある。
 「いのちまでとられるわけじゃない」んだよなぁ。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
ちょっと東京を離れます。休みとひとり仕事を兼ねてね。

土曜日、日曜日と祝日の「ほぼ日」は9時に更新しています。