藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

むかし礼賛をしないこと。

糸井さんのブログより。
最近、どうしても「コメントしたい」記事が多くて、ついつい引用している。
どうしたらあのように新聞記事とか時事ネタに依ることなく「自分の思考の原型」のようなものに毎日向き合えるのか、そこに糸井さんという人の奥深さを感じずにはおれない。

何かの「外部の事件」を比較対象にして物事を論じるのは比較的たやすいが、「外部のトリガーなし」に自らテーマを発生するのは相当に思索的な力が必要だと思う。
本日もそんなお題。

 いまよりも、昔のほうがよかったというのは、
 もともとの基礎点が高いような気がする。

 昔のものごとは、衰退しているものがほとんどだから、 
 現実的な力を持っていない。

 現実の世界で力がないもののほうに肩入れするのは、
 いわば「判官びいき」というやつである。

 つまり弱いもの、失われていくものに味方するのは、
 「言うだけ」でお終いなので、反論するものもいない。
 「なつかしいなぁ」「昔はよかったなぁ」と、
 共感しあって、それを楽しめばいいというだけだ。

 なにか文章を書くとき、「昔はよかった」をやると、
 いくらでも書けてしまうし、ある程度の共感も得られる。
 ぼく自身のなかに、なにかをなつかしんだり、
 「昔はよかった」と思う気持ちがないわけでもないが、
 それをやってしまうと、考えることが止まってしまう。
 だから、なるべくやめとこうと思っている。

と、現国の試験のようだけれど、文章に捨てるところがなかなかない。
一文一文に「その一文でなければならない」意味があるから、端折ることがしにくいのである。
贅肉の少ない文章というのはこういうことなのかもしれない。
だれもが反論しにくく、しかも「リアリティはすでにない"昔"について論じるのは「楽」だが「進歩はない」ということを、自分たちも感じることができる。
だから老人は煙ったがられるのだが、それを意識しておくことは大事なことではないだろうか。
特にこれからの年寄りには。
糸井さんは「延々と受け継がれるスイカ割り」を見ていてこんな発想をしたという。
昔はよかった、ではなく「昔はこんなことをしていたんだな」という「懐古依存主義」に陥らない、若い精神が必要なのだろう。
心が老けるから、若者に昔を強要したくなるのに違いない。

 
・ぼくは、できるだけ、「昔はよかった」というような
 「なつかしいことは、いいことだ」的なことを言うのは、
 抑えるように気をつけている。
 いまよりも、昔のほうがよかったというのは、
 もともとの基礎点が高いような気がする。
 昔のものごとは、衰退しているものがほとんどだから、 
 現実的な力を持っていない。
 現実の世界で力がないもののほうに肩入れするのは、
 いわば「判官びいき」というやつである。
 つまり弱いもの、失われていくものに味方するのは、
 「言うだけ」でお終いなので、反論するものもいない。
 「なつかしいなぁ」「昔はよかったなぁ」と、
 共感しあって、それを楽しめばいいというだけだ。

 なにか文章を書くとき、「昔はよかった」をやると、
 いくらでも書けてしまうし、ある程度の共感も得られる。
 ぼく自身のなかに、なにかをなつかしんだり、
 「昔はよかった」と思う気持ちがないわけでもないが、
 それをやってしまうと、考えることが止まってしまう。
 だから、なるべくやめとこうと思っている。

・しかし、「昔はよかった」にならないように、
 昔のことを書くということは、よくやっている。
 よくもわるくもない、おもしろいもんだな‥‥と。
 いやそのね、スイカを食べていて思ったんだ。
 「人は、スイカ割りをやめないなぁ」と。
 もともと、どうしてあんなにスイカ割りをするんだろう。
 スイカを食べるために、棒で叩いて割るというのは、
 もっともへたなやり方であるし、
 そうやって割られたスイカは、とても食べにくいものだ。
 わかっていても、人はスイカ割りをしてきたし、
 この夏も、どれだけのスイカが割られることであろうか。 
 幼稚園児も、ギャルだのJKだのも、割っているだろう。
 ぼくは土肥の浜で、極道の方々が楽しそうに
 スイカ割りに興じているのを見たこともある。
 たぶん、海や山に行ったら「嵐」や「キスマイ」だって、
 スイカさえあれば、スイカ割りをしようとするだろう。
 「最近の人たちは、スイカ割らなくなったねぇ」などと、
 言われるときが、いつか来るのだろうか。
 よいもわるいもないけど、おもしろいもんだな‥‥。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
「スーパーボールすくい」って、どうなっていくんだろう。