藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

次世代の何か

糸井重里という人の足跡を見ていると、何か惹きつけられるような。
吸い込まれるような感覚を持つ人は多いだろうと思う。
一見、派手でもなく、威圧的でもなく、けれどサブカルチャーに傾倒し過ぎているわけでもなく。
けれどコンテンツとか、交友関係から感じるのは明確な意思だったり。
柔軟だけど強靭、というのは宮本武蔵の自伝のような気がするのであった。

だから糸井さんのブログを拝読していても三日に一回くらいは「それ!」と共感し、何かを言いたくなってしまう。
これ、訴えられたらアウトなペースだけど、それでも「あ、そうなの」と思ってもらえるのじゃないか、という人間性を感じつつ、またコメントブログしてしまうのであった。


今回は「断ることをできる依頼の仕方」というお題。
そうだよな。
「自信のないこと」に限って威圧的に有無を言わさずやらせようとしたり、無理やり企画を通したりして、どんどん周囲から浮いてしまうものだ。

「お断り結構です」というのは、重要なのは決して上から目線で「やらせてあげますよ」というスタンスではないところが重要なのだと思う。

「おたくが要らないんだったら買わなくていいよ」というのはよくある職人気質の、一方通行のお店の話。
じゃなくて、あくまで提案姿勢での「いつでもお断りください」というところにシビれるのである。

私のご提案、いつでもお断りください。
まったく問題ありませんので。(ニコニコ)

頼む側の「自信」であり「余裕」であり「思いやり」であり「自然体」でもある。
柔術でも名人が備える自然体は糸井さんの会社でフツフツと培われていたのか。
よくあるIT業界の提案型とかソリューションとかは何だったのだろうか。

そして結局吉本隆明の「「善いことをしているときは、
 悪いことをしていると思っているくらいで、
 ちょうどいいんだよ」

という域にまで達するのだろうか。
"ほぼ日"という経営形態が「新たな経営方式」になるような気がして、そんな意味で目が離せないのである。

ぼく自身も、「ほぼ日」の乗組員たちも、
 気をつけていることなのですが、
 こちらからなにかお願いごとがあるときに、
 あちらが「断る」ということを、
 いつでも意識していたいと思っています。
 「お断りになることを歓迎します」とまで、
 わざわざ言うことではないのでしょうが、
 とにかく、「お断りさせてください」という返事が、
 言いやすいような頼み方をしたいと考えています。

 ぼく自身も、「ほぼ日」というチームも、
 こちらから依頼することもいくつもありますが、
 依頼されるということも、よくあります。
 そのときに、断りやすいような配慮を含んだ依頼には、
 信頼感を感じたりするものです。
 頼みごとの文面に、重くない感じで、
 「お断りいただいてまったく問題ありません」
 などと添えられていると、とても助かります。

 「断れないような頼みごとはするもんじゃない」
 というのは、尊敬する先輩方に共通する考えです。
 ほんとに、ぼくもそう思うし、
 「断ることを許されない頼みごと」というのは、
 考えてみたら「命令」というものですよね。
 外国映画のなかのセリフに、
 「これは命令だ」というのはよくありますよね。
 
 袋小路に追いつめた状態で、なにかをするというのは、
 なんでも、だいたい、よろしくないことです。
 それをやりがちなのは、ほとんどが、
 じぶんが「善いこと」をしていると思っている人です。
 じぶんがやっていることが「善いこと」でないと、
 人を動かしにくいから、
 じぶんのしていることを、どんどん
 「善いこと」だと思いこむように、
 じぶんをも「追いつめて」いってるのかもしれません。
 「善いことをしているときは、
 悪いことをしていると思っているくらいで、
 ちょうどいいんだよ」とは、吉本隆明さんのことばです。
 正義のお面をかぶりたがる人は、かないまへんな。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
読んでもらえる来てくれる、というのはうれしい励みです。