信長、秀吉、家康の天下人三択は言うに及ばず。
こうした「思考の類型化」はしばしば自分たちの「思考の労力」を省力化してくれる。
思考のショートカット。
だから政治がどう、経済がどう、先輩や後輩がどう、彼氏や彼女がどう、家族がどう、というような時に、自分たちは「知識として知っている内容」で状況を判断しがちである。
それはそれで人の叡智であろう。
だけど、何でも類型化して決めつけてしまうと、いつの間にか「考えない自分」がいることに気付いたのである。
「ある現象」が起きたら、それは「こういうことだよ」という経験則は、時に根本から考える、ということを省いてしまう。
いわゆる「頭でっかち」である。
円高は・・・とか
為替レートは・・・とか
債券や先物市場は・・・とかいう話にはそうした現象論が多く、根本的な議論が少ない、と自分は常々感じていることに気付いた。
(しかも「こういうの」は年とともに酷くなってくる。)
思考もストレッチしないと老化するのだ。
本当に自分で噛み砕いて、血肉になっていない知識で何かを語るのはどこか物哀しい。
だから少々稚拙でも、少々練れていなくても、自分で考え、納得している理屈だけで喋るようにしたいものだと思う。
そういう自分もつい「知った知識」で会話をしてしまうことが多いのだが、それは浮付いた会話の応酬でしかない。
択一方式にハマることなく、「自分の素」で考えて表現することが重要ではないだろうか。
・いつごろ、どういう人が考えたのか知りませんが、
「ホトトギスと天下人」の喩えというものがあります。
信長は「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」で、
秀吉は「鳴かぬなら鳴かせてみようホトトギス」ですか、
で、家康は「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」と。
たぶん架空の句だったとは思うのですが、
いつのまにやら、ずいぶん有名になっているようで、
それぞれの武将が、これを知ったら、
「ちょっとちがうなぁ」とか言うかもしれませんよね。
昭和の時代には、ちょっとお酒の入ったおやじとかが、
すっかりその気で「おれは信長だから」とか
「あいつは家康だからなぁ」とか言い合ってました。
信長でも秀吉でも家康でもないふつうのおじさんが、
問題の構造が三択になっているおかげで、
三人のうちの、誰かを選ぶしかないから、
そこで天下人の気分になれちゃうんですよね。
星座とか血液型で分類されるよりも、
天下人の誰かに分類されるのは気分よかったでしょう。
あんまりシラフじゃ、言いにくいかもしれませんけど。
でも、妙に記憶に残る喩えなので、
大人になってからも、ふと、思い出すことがあります。
じぶんは、どれに近いんだろうと考えてみるわけです。
でも、なかなかどれもちがうような気がする。
ふと、なにかの待ち時間のときに、
冗談として口から飛び出したのが、
「鳴かぬなら‥‥抱かれてみたいホトトギス」でした。
まったく出まかせだったのですが、へんにおもしろい。
ホトトギスのほうを、途中から主体にしちゃって、
しかもじぶんも性別を変えちゃった。
三択じゃなくなって、オリジナルにしようとしただけで、
なんだか軽くなって自由になった気がしたんです。
二択とか三択とか、あらかじめ答えが用意されていて、
あとは選ぶだけってものごとは、疑ったほうがいいね。
ホトトギスに抱かれる人生も、あるかもしれないもの。
「鳴かぬならごはんにしましょうホトトギス」もいいな。
みんなも、ちょっと遊んでみてはいかがでしょうか。今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
鳴かぬなら静かに暮らせホトトギス‥‥ああ、きりがない。