藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

楽しみばっかり。

ないことを嘆くより、足るを知り感謝して生きろ、とよく言われる。
確かにその通り。
分不相応にないものを望み、ないことに不満を抱いて不機嫌になっていれば周囲からも疎まれるだろう。

たのしみと言いたくて、そのタネをまいてきたのだ。
たのしみと感じるようなことを、準備していたのだ。
そういう意味では、ぼくは、
ちょっと過去のじぶんたちに感謝しなくてはね。

「先がたのしみにならないような今」っていうのが、
ぼくにはつらくて仕方がない。

今を嘆く暇があれば。
今をぼやく暇があれば。
来週とか来月とか来年とか(来世とか?)に「何だか楽しみだね」ということに「今」を使うべき。
分かっていたようでハッとさせられる。
反省が必要ないのではない。
けれど、だから「この先は楽しみにできる」ということに心を砕きたいものである。
「今が楽しい」とか「ああ、楽しくない」というのはその時点の「単なる感情」である。
過ぎ去る瞬間の表現であり、あまり将来につながった表現ではないと思う。

そういうのと「楽しみな種をまく」とか「楽しみのための準備をする」というのは全然違う事なのだ。

ひょっとして農家の人がみな落ち着いていて心穏やかな感じがするのは「そんなこと」をしているからだろうか。
今日の反省会も、初めての人と会うのも、すべては「楽しみの種蒔き」なのだと思えば、何でも楽しいことのように思えてくるじゃない。
「楽しみを準備する」という考え方は、実はすごい発明なのかもしれない。
まだ特許にはなっていなそうなので、大いに使わせてもらうことにしよう。
あー楽しみ。

・何通かのメールの返信を書いていて、
 途中で、ふっと気がついた。
 「たのしみです」とか、「たのちみ〜」とか、
 ずいぶん何度も書いていた。
 それに気づいて、なんだかうれしいことだと思った。
 
 新しい商品がテストされるようなことだとか、
 やっているプロジェクトが動きだしてることだとか、
 親しい人に会う予定があることだとか、
 みんなして遊びに行く計画があることだとか、
 知りあいがはじめることについてだとか、
 取り寄せている食べもののことだとか、
 どうしてこんなに「たのしみ」なのだろうか。
 いや、どうしてもなにもない。
 「たのしみ」なことがたくさん用意されているのだから、
 たのしみにしているというだけのことだ。
 
 思えば、ひとつずつを暗く考えたら、
 うまく行かなかったらどうなるだろうとか、
 なにかの結果がでるのが怖いとか、
 途中でさんざん苦労するんだろうなぁとか、
 あれとこれが不完全なままだとか、
 「しんぱい〜っ」ということにもなりそうだ。
 まったく同じことに対して、
 まるっきり反対の感じ方ができるんだなと思った。
 
 「たのしみ」にできることが多いぼくは、
 いまの時期、こころが安定しているということなのか。
 いやいや、そういう感じじゃない。
 たのしみと言いたくて、そのタネをまいてきたのだ。
 たのしみと感じるようなことを、準備していたのだ。
 そういう意味では、ぼくは、
 ちょっと過去のじぶんたちに感謝しなくてはね。
 「先がたのしみにならないような今」っていうのが、
 ぼくにはつらくて仕方がない。
 だから、先に合わせて
 穴を掘ったり材料を揃えたりしているんだと思う。
 「目的」とか「計画」というよりは、もっと、
 「たのしみ」がつくりたい、という感じなんだよなぁ。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
「TOBICHI」での『気仙沼ニッティング』も、今日からだ。