藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

ストレスの抜き方。


多分、現代人はかつてなく分業化が進み、米や野菜や肉を作る人やそれを商う流通の人だけではなく、もうゲームを作るとか、ネットの接続業者とか、店の呼び込みとか、もう際限なく細分化が進んでしまったから「自分はいったい何する人ぞ」ということも多い

それがそういう「見えないことのストレス」になって、自分の定位感を損なっている面は大きいと思う。
直感的に「人が食べるお米を作る」というのとは大分違った生業もとても多い。
そうして分業することによって、毎日ニュースを届ける、とか面白い番組を作るとか、いろんな専門職が出現しているけれど、「それ」に迷っている人もまた多いのに違いない。

先日二十年ぶりに会った昔からの友人が禁煙に苦労していた。
「喫煙」という部分にストレスの発散を見い出したら「それ」が拠り所になる。
これが「賭け事」とか「風俗通い」とかあるいは「薬物」とかになっていても不思議ない。
「進んだ分業化」は、かなりの確率でそうした「自分の所在なさ」を伴うのではないだろうか。
社会の中で一生懸命働いていることは間違いない。
けれどどこかに不安とか不確かさを感じて、その歪みがどこかにでてしまうのじゃないだろうか。
逆に見れば、それで「精神的な健全性」が保たれているともいえる訳で、もしそういったガス抜きの手立てがなければ思わぬ形で、他所で暴発してしまう危険もあるわけだから、「飲む打つ買うの三拍子」も悪いことばかりではない。