藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

技を作り出す力。


よくプロの音楽家が「子供は無心に演奏できる」というアドバンテージがあるけれど、「考えて聴き、そして演奏する」というのは大人が絶対に有利である、と仰る。

「ためらいや気負いなく演奏する力」と同時に「分析し、考え、ストーリーを持って演奏する」ということにも価値があるのに違いない。
(両方できる人がプロなのだと思うのだが)

人の精神と身体というのはよくよく不思議な関係を持っているものだとしみじみするけれど、この関係は何も音楽だけに限らない。
体の身体能力だけで記録を追求するアスリートと、頭で考え「いかに体を動かすか」を考える人では、恐らく総合力に差が出てくるはずである。
身体能力の差、というのはある種絶対的な優劣があるけれど、それを精神や理論が優越することがあるのなら、これは人ならではのすごいことに違いない。

そして、この現象は何も演奏とか競技の場だけではなくて、日常の仕事の中でも同じである。
能力があって、でもただただお客さんと話して営業したり、文書を作成したり、ということを「身体だけ」でこなしているのと一方、「いかにこなすか」「いかにストーリーを描くか」「いかに相手の事情を汲むか」ということを考えて行動するのでは後者に良い結果がでることも多い。

つまりフィジカルな能力が足りなくても、それを思考することで埋めるというのはいくらでもできることなのだ。
というよりも「思考の影響するシェア」の方がずっと高いのが実社会だと言えそうだ。
筋肉が太く、反射神経が優れていなくとも「考えること」でいくらでも応用が利くのが実社会なら、案外こんなにフェアで面白い場もないのじゃないかと思う。

自分自身に言っているのだけれど、結果が出ないと嘆く前にまだまだ考え、掘り下げて動いてみる余地はあるのではないだろうか。

能力が足りないとか、組織が小さいとか嘆くのではなく、その間に「考えられる色んなこと」がまだまだ転がっているのに違いないという気がしてきた。
選択肢はまだまだ一杯ありそうだ。