藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

自分の姿勢。


待ち合わせの場所で相手から「ああ、遠くから何となくあなただとおもいましたよ」と言われたことってないだろうか。
背格好や歩き方とか姿勢の取り方で、何となく人の特徴が分かることって結構ある。
これは外見だけにとどまらない。
糸井さんのブログより。

若いころは、姿勢が定まらない、と思う。
悪い姿勢になったり、背伸びしてみたり、肩で風を切ったりもするだろう。
そもそも自分の姿勢のことなんてあまり考えていなかった。
というか「自分の特徴」として姿勢があるというような意識もなかった。

同じことが内面にも言えそうだ。

 できるのは、姿勢のとり方だ。
 どういう姿勢でいたいのかは、じぶんで決められる。

自分はどういうことを重要視しているのか。
人と初めて会うとき、
家族や友人や恋人との接し方。
仕事先でのふるまい。
同僚や上司や後輩への態度。
お金の使い方。
貯蓄、借金、投資。

自分にとっての善悪。
何より何がより重要か。
禁じること、許容すること、同調することはどんなことか。
そういった無数の「目盛り」が自分の中にある。
そして、そうした「目盛りたちの結果」が自分の人格を形作っているのだ。

不正を許さないとか、
義理を重んじるとか、あるいは
人付き合いはあまり重要でない、とか
実に様々な価値観の「目盛り」が自分たちの生活の中にある。

日々暮らしていると「これってどの目盛りだっけ?」と意識することは稀だけれど、「自分の目盛りを進んで決めていくこと」ってなかなか大事なんじゃないだろうか。
日常意識しない自分の選択の基準を、外面も内面も洗い出してみたら、案外客観的な「自分ってやつ」が自分で見えるのじゃないだろうか。

自分の目盛り日記、でも始めてみようかと思っています。

・じぶんに、さまざまなことを質問する。
 他人の悪いことがニュースになったとき、
 「おまえは、それをしないか?」
 少しでも、するかもしれないと思えるなら、
 さらに考えることをすればいい。
 「しない」と言い切れそうなこともあるけれど、
 これまで生きてきた道のりのおかげで、
 「しない」と言えるようになったのだとも言える。
 
 「それをしない人でありたい」と願うことはできる。
 よく願っていれば、そういう人になれそうだ。
 そのときになれなくても、
 いずれはそうなりたいと思っていれば、近づけると思う。
 できるのは、姿勢のとり方だ。
 どういう姿勢でいたいのかは、じぶんで決められる。
 そして、じぶんでチェックもできる。
 姿勢以上のことは、じぶんでどうにもならないと思う。
 じぶんでどうにかなると思いすぎていると、
 そのじぶんに裏切られることもあるだろう。
 そんな例は、現実にもドラマにも、いくらでもある。

・ずいぶんおおげさなことを語ったあとに言うのだが、
 ここ一年か二年くらいの間、ひとつの生き方として、
 とにかく笑っていようと思っている。
 深刻な場面でも、真剣な場面でも、怒っているときでも、
 「笑おうと思えば、いつでも笑える」
 という姿勢でいようと考えている。
 人にどう思われてもいい、笑えることだ。
 これは「そういう人になりたい」という理想なので、
 それに近づこうとしている。
 
 実をいえば、ずいぶんできるようになったのだ。
 特に、前にも言ったけれど、
 枕に頭を置いたら、笑って眠りにつくという「寝禅」は、
 かなり自由自在になっている。
 しかし、起きているとき、他人がいるとき、
 「よし、ここで笑えたら」という場面で、
 なかなか自由に笑うのはむつかしいんだよねー。
 やっぱり、笑うっていうのは表情の問題じゃなくて、
 気持ちの奥に「平常心」がないとだめなんだよなぁ。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
わっはっはっは‥‥これじゃ古い映画の悪人の首領だね。