糸井さんのブログより。
偶然今日、ちょうど同じことを考えていたのでちょつと書いてみる。
・インターネットというものを知ったとき、
いまじぶんのいる「この場所」が、
地球上のどことでもつながるということに興奮した。
(中略)
そして、インターネットそのものに興奮する時代も
なんとなく終わって、この乗り物は、
あって当たり前のものになってしまった。「デジタルネイティブ」ということばもあるけれど、
「インターネットは、当たり前」
というところをスタート地点にして、
ものごとが考えられていく時代になっている。
ネットで世界中のウェブが見られる。
初めは「何を上げようか」「見ている人はどのくらいいるかな」といった風だったのが、
世界中の人がどんどん公開情報とか持論とかデータを上げて、瞬く間に「ウェブが標準」になった。
もうホームページを持たない企業や団体はごく少ないし、決算や白書をアップしていない上場企業や官庁はない。
家電や機械類のマニュアルも、また使い方のコツとかトラブルとか悩みの相談だってもう標準的な物は「なんでも上げるのがマナー」のようになっている。
「上げるものを考える」と言うより「上げないものを選ぶ」とか「何でも上げておく」という感覚に近い。
あっという間に"ウェブが前提"の時代になっている。
つい最近、新規事業の話をしていて数年前なら「ウェブで何をするか」を考えていた話題の中心が「何でもウェブがまずありき」になっていることに改めて驚いた。
「それってウェブで展開すればいいんじゃないか。」という文章はもう消えてしまった。
そしてもう「ウェブでやるならば」という人もあまりいない。
ウェブ前提で話が始まっているのである。
段々と時代の流れに自分たちの感覚がゆっくりと追いついて行く感じがするし、また今の二十代の人はまったく「ウェブ前提」に違和感を感じていない。
反対にそうしたウェブ・ネイティブ的な人はface to faceのことを分かっていないのじゃないか、と思ったりするがあながちそういうことでもないようだ。
自分の身近な道具としてウェブやスマホが既にある。
これからのビジネスは「その先で」というところをかなり強く意識しておかないと自分たちの世代は置いて行かれるな、という気がヒシヒシとしたのである。
(つづく)
・インターネットというものを知ったとき、
いまじぶんのいる「この場所」が、
地球上のどことでもつながるということに興奮した。「ここ」にいるわたしが、
エジプトでもアラスカでも、チリでもタイでも、
とにかくどこの人とでも交信できるということは、
いまだかってない「能力の拡大」だと思った。
少年のころに手に入れた、じぶんのための自転車が、
それまでとはまったく別の次元の世界に
連れていってくれたように、
インターネットは、ものすごい速さで、
どこまでも遠くに行ける乗り物に思えた。その直前まで、何者でもない個人が、
世界と通信するなんてことは、夢でさえなかった。
つまり、おそらく、「そんなことをしたい」なんてこと、
思ってもいなかったのだと思う。
とんでもない乗り物を手にして、
人びとは、さまざまな便利やビジネスを生み出した。
そして、インターネットそのものに興奮する時代も
なんとなく終わって、この乗り物は、
あって当たり前のものになってしまった。「デジタルネイティブ」ということばもあるけれど、
「インターネットは、当たり前」
というところをスタート地点にして、
ものごとが考えられていく時代になっている。
自動車も、テレビも、そういう時代を経てきたわけで、
インターネットも、やっとそこまで普及したとも言える。ぼく自身が考えているのは、「超ローカル」だ。
「もっと遠くへ、もっと速く」だったインターネットが、
「もっと隣りへ、もっとじっくり」を、含んでいく。
世界のたまごやきが見られるのもインターネットなら、
隣りの家のたまごやきを知るのも、インターネットだ。
「地球をぐるっと一周して、じぶんの後頭部を見る」
というようなことをするのにも、
インターネットという乗り物は、とても都合がいい。
ここ二年くらいは、そういうことを考え続けている。今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
ますます、「汝の隣人を愛せよ」のすごみを感じているよ。