藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

男と女。(と同性)

持ち慣れない徒に高級品を身に着けていても様にならない、という話から。
実は「人vs物」だけではなく「人vs人」の付き合いも同様だ、と書いた。

中国の友人に大陸では「人は必要な時に必要な人に出会う」という諺があると聞いた。

良い人に出会えていないのは「自分がまだそれに値しない存在だから」ということだった。
偉い人と名刺交換する機会があってもそれ以上に発展しないのはよく経験することでもある。(嘆)
相手の問題ではないのだ。
出会いのチャンスを活かせるかどうかは、自分に掛かっているということだ。

てなことをつらつらと認(したた)めていたら「男女の仲はどうなのさ?」という質問が複数あった。

ううむ。
渡辺淳一先生にでも聞かねば答えに詰まるけれど、「人vs物」「人vs人」と同様で互いが「反応しあえるかどうか」ということなのではないだろうか。
甲斐性なしとか鬼嫁などとよく言うけれど、一方だけに原因があり、ハナから結論が出ている様な異性関係はむしろ珍しい。

お互いの「出会う前までの文化的体験とか価値観など」をすり合わせ、互いがこれから発展してゆけるかどうかを確認する必要があるのだと思う。
あまりに出来過ぎて許容範囲の広すぎる人間関係は、実はリアリティを失うのではないかと思うのである。

男女の関係で言えば、相手を束縛し過ぎず、けれどじわじわと相手の「主戦場」に移動しながら、長期的な相互関係を築くことが出来るか否か。

今の十代前後の若者たちはそんな渦中にいるのだし、また相手を理解しなければ関係は発展してゆかないだろう。
攻守は互いに何度も入れ替わり、リードする時期も守る時期も必ず訪れる。

などと言ってはみたものの、男女(とか同性)の仲も「互いに相応しいかどうか」という「資質と相性」の問題に尽きるのではないだろうか。
必要な人に出会っても、互いがかみ合わなければそれまでの縁だろう。

ただし、結構努力の余地はあるというか、それ次第なのでないだろうかと、今の年にして思うのが正直なところです。