糸井さんのブログより。
言葉の表現で、言い足りないことがある。
だから「本当の」とか「真の」とか「元祖」とか「唯一の」とか「他とは違う」と言いたくなる。
けれど途端に嘘っぽい。
なぜなら「本物」は別に自分でそれを誇示しないから。
という自己矛盾と自分たちは日々闘っている。
"絶対"というと途端に絶対ではなくなる。
本当の、と言った途端に「本当か?」と思われる。
「愛してる」と言わなきゃ伝わらないのが昨今の常識らしいけれど、目や空気で伝わる部分の方が本物っぽいと思うのです。
「私はあなたを絶対裏切りません」という言葉はどこまで信じられるだろうか。
多くの武道の達人が、見るからにギラギラ、ごつごつしていて攻撃的かというとそうでもない。
学者やビジネスの成功者と言われるような人だって、見るからに偉そうな人よりは一見穏やかでニコニコしている人の方が多いのと似たようなことじゃないだろうか。
確信があったり、自信があるのなら必要以上に凄んだり、声高に表現しなくても実はすごいのだ。
"沈黙はやっぱり金"なのじゃないだろうか。
・「ほぼ日」がはじまって以来、17年と5ヶ月くらい、
この「今日のダーリン」というコラムみたいなものは、
一日も休まずに、毎日ずっと続いています。
「どうしてそんなことができるんですか?」と、
なかばあきれられながら質問されたりもします。
いろんな答え方があるのですが、
最初に「ほぼ」と言ったのがよかったんじゃないかな。
いちばん大きな理由は、それだったと思います。
「ほぼ日刊」と名付けたときには、
「真に日刊」だの「絶対日刊」だのは無理だと、
ふつうに、そう思っていたのです。
「ほぼ」という二文字が付いていることで、
いつでも休めると思いながら書いていられました。
いつでも休める、と思ったら、気が楽です。
じぶんで決めればいいのですから。
そう思ったら、「いつ休もうかなぁ」と、
いつかくるその日のことが、たのしみになりました。
「ほぼ日」に「ほぼ」と付けていて、ほんとによかった。
「電線にとまっているスズメは、なぜ落ちないか?」
という問いかけを読んだことがあります。
その答えが、「落ちてもいつでも飛べるから」でした。
それとはちがうのかもしれませんが、
最初から「ほぼ日刊」なのだから、
休んだからといって申しわけなくもないはずだし、
謝る必要だって、わざわざ断るだってないんですよね。
大まじめな人にとっては、気持ち悪いことかもしれない。
でも、歯を食いしばって「絶対」とか言っていたら、
逆に、とっくに「もうだめだ」となってたと思います。
・「一生ともだちでいよう」という友情も、
「生涯の伴侶として永遠の愛を誓う」ということも、
「ありえない」とか言ってるわけではありません。
ただ、そういう「絶対」のつくようなことは、
「人間には向いてないんだよね」、と、
頭のすみに置いといて誓えばいいじゃないですか。
できたら、もうけものですよ、運もよかったんだ。
そういうもんだと思うのです。
こういうこと言うと、いい加減だと怒る人もいます。
でもさ、怒る人のほうが、あんがい裏切ること多いよ。今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
前日の「出口」を明るくしておく、という話の続きかもね。