もともとは、大型連休を前にしての例年の感じ。
糸井さんのブログより。
しかも、すべての人は、
たくさんのやりかけのことをやりかけのまま残して、
生きることのエンディングを迎える。
「これからやりたいこと」「やれればいいと思っていたこと」「やりたかったこと」というのはそれぞれ微妙に諦め感が違う。
人間って、常にそうした「思い」と「現実」のギャップに悩む動物なのだろう。
(多分こういう感覚は昆虫にはない)
何せ、ある「やり遂げたこと」ですら「そこからまた始まっている」と思えば、もう万事が「終わらない世界」に見えてくる。
たとえ自分の寿命が尽きても「やっていること」は連綿と続く。
「やりかけたこと」は子供のようなもので、もう自分自身とは違う生き物なのだ、と思えば合点が行く。
何かをやろう、と思うことはつまり「自分ではない霊性」を作り出すことなのだ。
そう考えると創造というのはすごいことだ。
(づづく)
・いわゆる黄金週間を前にして、
気づいてみたら休み中にやっておきたい宿題を含めて、
ずいぶんたくさんの仕事が溜まっていた。
だいたいいつごろまでにやっておこう、と、
考えかけてそのままにしておいたことが、
ひとつずつ増えていたというわけだ。
ぼくももう、こどもじゃないんだから、
もうちょっとやり方があったとは思うんだけどねー。
やりかけのこと‥‥。
やってる途中のことばかりだなぁ。
と、どんよりと弱気になるところで、
おいおいおい、と、気がついてしまったんだけど、
あらゆることは「やりかけのこと」じゃありませんか。
ひとつなにかが終わったって、
その終わったところから次の局面がはじまってる。こどもが生まれて、親になったなんてときも、
やっと生まれましたねという意味では終わりなんだけど、
そこからそのこどもを育てていくことがはじまるわけで、
子育てが終わったねという日が来ても、
それでもまだなにかが続いているはずだ。人生は、やりかけの日々の積み重ねである。
あらためてそう言うと、なにか意味ありそうだけど、
ものすごく当たり前のことで、そうに決まってるよね。
しかも、すべての人は、
たくさんのやりかけのことをやりかけのまま残して、
生きることのエンディングを迎える。
その、死という終わり方は、目的にしてなかったのにね。
そして、じぶん以外の人たちが、
亡くなった人のやりかけのことを引き継ぐわけでもなく
そのままにして忘れてしまったりもするし、
ときには続きとして、またはじめたりもするわけだ。
せっかく人生とかおおげさなことを言っちゃったので、
いっそという思いで言わせてもらえば、
もともと宇宙とかいうやつだって、
目的のないどこかへと向かうやりかけの積み重ねだ。
おれのやりかけの仕事ぐらい、なんだっつーのだよ。今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
うむ。言い訳のなかにも、幾分かの真実はあるものだよな。