藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

実はそんなもの。

ほぼ日より。
一年のうち、自分の元に寄せられる相談の半分は「働くことについて」だ。
働きたくない、とかではなく「どの職業がいいのか」というのが圧倒的に多い。

それで、いつも「あなたの気構え次第だと思う」と答えている。
今もその回答は正しいと思っている。

その「職」というものを拠り所にして、「自分自身がいかようにも変化してゆく」こと。
若いってそういうことではないだろうか。
もちろん年取っても変化はできると思いますがね。

それでも多分、自分たちの親世代の頃のように「食うや食わず」の時代ではないのだろう。
だから今の時代の人には特有の職業観はあるのだと思う。
華やか、だとか。
楽だとか。
正義とか権力的とか。
学究的とか。

そうした「贅沢メニュー」はいくらもあるだろう。
だからあえて思う。

なんとか食えるようになれたら、それでいいか。
なにかをあきらめていたのではなく、それで十分だった。

何かで食えるようになること。
そして、「そうなってからの大人」が考えることは、子供がただ夢想していることとは違うと思う。
バーチャルリアリティが、まだ現実の経験は超えられないようなものだ。

つまりは「あらかじめ「これだ」と分かって突き進む」ようなものが仕事ではない、ということか。

「これが何なのか」と思う方向性のなさがあってこそ。

試行錯誤の極みで、何かを少しづつ「手ごたえ」にしながら、「何となく」方向を探していく。

職業ってそういうことだろうか。
さらに、生きるってそんな感じではないだろうか。
確信を持って進めることなんて何一つなさそうだ。

糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの今日のダーリン

・よく、歌うことを仕事にしている人たちに向かって、
冗談として「歌うまいねぇ、歌手になれるよ」と言う。
イラストレーターに向かっては、
「これだけ絵がうまいなら、絵描きになれるよ」と言う。
本職の人たちは、もちろん、余裕で、
「なれますかねぇ」なんてことを言って笑う。
たぶん、プロとして歌を歌ってきた人たちも、
イラストレーションを仕事にしてきた人たちも、
これまでに、「本職でやっていけるよ」とか、
周囲の人たちに言われたことがあるんじゃないかな。
そして、そうやって認められているうちに、
「よし、プロになってやろう」なんて思うようになって、
本気でその道を進みはじめるのではなかろうか。

とか思って、じぶんのことを振りかえってみると、
ありゃまぁ、おれ‥‥
だれにも感心されたことなかったかもしれない。
「いい文章書くねぇ、作家になれば?」ないない!
「いいアイディアだねぇ、それで食っていけるよ」ない!
だれに褒められていたわけでもなく、
どこで勧められたわけでもなく、
他に思いつくこともないままに、じぶんで、
「コピーライターというものになれるかもしれない」と、
勝手に決めて養成講座というものに通い始めたのだった。
もうちょっと文章を書くことについてだとか、
なにかアイディアを生みだすとかについて、
才能の片鱗でも他人が感じ取っていたら、
もうちょっと気持ちよく生きていられたかもしれない。
「あなた、すっごく歌がうまいわね」みたいに、さ。
でも、そういうこともなく、
これが天職だという感覚などもちろんないままに、
ぼくは20歳の「ただのだれかさん」として生きていた。
それはそれでしょうがないと思っていた。
なんとか食えるようになれたら、それでいいか。
なにかをあきらめていたのではなく、それで十分だった。
やがて、講座のY先生が、ぼくのことを褒めてくれた。
それが過分な評価であろうがなかろうが、
ぼくは、それを信じるしかないと思った。
そのとき、はじめて「いいね」と評価してもらえたのだ。
それから、いろいろあって、いまに至るのである。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
つまりその、歌がうまくないけど歌手になってたという話。