藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

感動職。

モノを売ったり、お酒や食事を出したり、マッサージとかのサービスをしたり。
「一定の物を一定の値段で提供する仕事」と「感動を与えてなんぼ」という職業がある。
前者が感動を伴わないということもないのだけれど、「音楽とか芸術とか文学とかスポーツとか映画や芝居」なんかは感動ありきの職業だ。
"感動職"と言ってもいいそういう職業ってなんとシビアだろう。

 海に棲む生きものが海と生きているみたいに、
 ミュージシャンの人びとは、音楽のなかで生きている。

 ただの音楽好きな人の耳に音楽が聞こえているのと、
 まったく別の質量で、彼らは音楽と生きているのだろう。

 そういう音楽に生きている人たちの、
 おすそわけみたいなもので、
 こんなふうにぼくらはたのしんでいるのだな、と思うと、
 なんだかありがたいぞ、という気持ちになる。

感動を与え、与え続けるってなんと厳しいことだろう。
結局重要なことって「スペシャリティー」ということだ。

自分たちの日常の仕事だって専門性はあるはずだけどほとんどの場合は「お互いの期待値の範囲内」でのやり取りだ。
たまに期待以上の仕事ぶりに触れると感動することはあるけれど、端から「それ」ばかりを求めてはいない。
音楽とか・・・というのはどこか「期待以上の感動を期待する」職業なのじゃないだろうか。
もう聴衆たちは「何が起こるだろう」とワクワクして集っている中での仕事だから、ハードルの高いことこの上ない。

で思ったことは、そういう「感動職」ではない自分なども、どこかに「そんな感動」を生めるようなことを考えてはどうだろう。
モノを売ったり、相談に答えたり、という仕事の中でたまにでも「あなたの仕事に感動しました」と言ってもらったらそりゃすごいことだ。
感動は感動職だけの専権事項、と決めこまずに感動職の精神で仕事をしてみてはどうだろうか。

矢野顕子とティンパンアレイの
 いっしょになってのコンサート、ほんとによかったなぁ。
 細野晴臣鈴木茂林立夫の三人と演奏する矢野顕子は、
 実にまったく、ほんとうにたのしそうだった。
 それを感じているティンパンの三人も、
 音楽のたのしさを存分に味わっているようで、
 客席のぼくらも、そのたのしさが伝わってきて、
 自然にうれしくなってしまう。
 そんな、「ひとつの理想ですよね」と、
 みんなで顔を見合わせるようなコンサートだった。
 
 音楽家のともだちやら、知りあいの人たちのことを、
 あらためて想像することになった。
 そうか、この人たちは、いつもたくさん、
 音楽のことを考えたり、音楽を味わったり、
 音楽を練習したりしているんだな、と思った。
 海に棲む生きものが海と生きているみたいに、
 ミュージシャンの人びとは、音楽のなかで生きている。
 そういうものなのかもしれない、と思うと、
 ちょっと背すじがぴりっとした。
 ただの音楽好きな人の耳に音楽が聞こえているのと、
 まったく別の質量で、彼らは音楽と生きているのだろう。
 そうでなければ、あんなステージはできっこない。
 
 そういう音楽に生きている人たちの、
 おすそわけみたいなもので、
 こんなふうにぼくらはたのしんでいるのだな、と思うと、
 なんだかありがたいぞ、という気持ちになる。
 観客席の友人たちも、みんな胸を高鳴らせていて、
 上気したような顔でNHKホールから歩いた。
 
 思えば、スポーツを観戦したあとにも、
 こんなふうになることはあるなぁ。
 芝居や映画でも、こんな興奮はあるものだ。
 そして、そういうときめきをあたえてくれる人たちは、
 それぞれにスポーツを生きていたり、
 映画や芝居を生きていたりする人たちだと気づく。
 音楽でもそうだけれど、そういう人たちが、
 その世界で生きてけるように支えるのは、
 観客席で満面の笑みを見せていたぼくらの仕事だね。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
海に棲む生きものが海と生きてるみたいに‥‥すごいなぁ。