藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

重要なテーマ。

ほぼ日より。
自宅に固定電話はなかった世代が中心になっているらしい。
「ネット前」と「ネット後」を知っている自分たちの世代はもうかなりクラシックな存在とも言えそうだ。

「書きたいものを書きたいだけ、好きなときに書いて発表できる」ということが驚きだった。
一般人にもメディアが解放された、と話題になった。
確かに強力だ。
「書いたものを直したり、加筆したり、消したり。
読者の反応がすぐにもらえたり。」

インターネットに慣れすぎたぼくらは、
知らず知らずのうちに自由を増やしたかもしれないが、
「覚悟と判断」をいつまでも先延ばしするようになった。

そうだ。
ネットメディアのあまりの自由さに、自分たちは"沈思黙考"をやめてしまっている。
修正のきかない本とか論文とかに入魂しようとすれば何ヶ月もかかるだろう。

ネットには時間軸がない、とよく言われるけれど「日々のこと」とは別に「まとまって考えた方がいいこと」は準備した方がよいのではあるまいか。
まとまった方がいいことを考えている。

糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの今日のダーリン

・ぼくは、あんまりデジタルの世界に詳しいものではなく、
50歳を前にのろのろとインターネットをはじめた人間だ。
インターネットは、実に新鮮でおもしろかった。

ひとつの原稿を書くのにも、原稿用紙何枚とか、
何文字で何行というような文字数の制約がない。
もちろん、文字数を決めるやり方もあるのだけれど、
とにかく書こうと思うだけ書けるメディアだった。
なんと自由なんだと、ぼくはよろこんだ。
書きたいだけ書いて、やめたくなったらやめる。
自由だ、すばらしいと感激した。

書いたものを、だれかが印刷所に運ぶわけでもない。
製本所でまとめたり綴じたりする必要もない。
締切りがあったとしても、その直前までに書いてあれば、
そのままおおぜいの人に向けて発表できる。

書いているものに、まちがいがあったり、
もっと適当な表現に直したいという場合には、
発表してからでも直すことができる。
さらに、直したものを、また元に戻すこともできる。

そして、読んだ人からの感想や批評などを、
発表するそばから知ることができる。

こんなにたくさんある「とりえ」に、ぼくらは慣れた。
なにかものを書く、表現する、人に伝えるということが、
のびのびと息をするようにできるようになった。
そう思ったし、それはいいこともたくさん呼び寄せた。
どんなところにいる、だれでもが、考えついたことを、
いつでもいくらでも書いて発表することができるなんて!
まちがっていたら、直せばいいんだもの。
印刷物でも、実際の製品でも、そんなふうにはいかない。
出しちゃったものは、直せないのがふつうだ。
くだらないのが自慢の雑文でも、印刷されたら直せない。
そこには、覚悟と判断が必要だったのである。

インターネットに慣れすぎたぼくらは、
知らず知らずのうちに自由を増やしたかもしれないが、
「覚悟と判断」をいつまでも先延ばしするようになった。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
いいことばかりじゃない、わるいことばかりでもないけど。