藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

男の場合。


日経プロムナードからの続きです。
女性の場合。

 その甘くくるむものの正体は、自分につく値札である。
仕事や家庭でさんざん価値がないと言われ続けている人が、恋愛をすると自分には価値があると認めてもらったような気がする。
結婚前、高い値段がついていた自分自身をもう一度確認したくて、主婦が不倫に走るのだとすると、ちょっと切ない。
それは、今の生活を不幸だと思っているからに他ならないからだ。

誰にも「承認の欲求」というのがある。
自分たちはどこかの社会に属し、そこで認められたいと思っているらしい。
けれどその「認められること」が目的になってしまっては本末転倒だ。

 高価そうな物をちらつかせ、あるいはスカートの下をちらつかせながら、あなたにはそれだけの価値があると言って近づいてくる異性がいたら要注意である。
私たちはタダであることを思いだそう。
道に落ちてる子猫と同じで、何の価値もないですと言おう。
ご冗談でしょうと笑い飛ばして、自分を自分自身のものにしておこう。

男性の場合。
この「認めてもらいたい願望」は女性よりも強いかもしれない。
常に「他者」と比べる自分がいたりする。
オスは「より強いオス」のことを意識している節がある。

くだらない。
その「くだらないこと」に気づかないと、「無限に強い」とか「無限に富む」とかいうことに取り憑かれる。
"瘧に取り憑かれる"のだ。
この世で最も恐ろしい「自己目的化」の病である。

結果的に、体重計や健康診断の数値で「自分の数値」を計ることはあるにせよ、「他人からの測定値」で自分を決めてしまわない強さは必要だ。
木皿さんのコラムは鋭かった。

私たちはタダである   木皿 泉
恋というものが、一番尊いと思っている年代の人たちがいる。それは七十年代に青春を過ごした人たちのことである。時代は、ラブ・アンド・ピースであった。

 私もその年代に入るというのに、なぜか恋愛には懐疑的である。それは、私が徹底的にもてなかったということもあるが、当時、恋愛には商業的なものがついてまわって、お金と直結していたのが生理的に嫌だったのだと思う。

 特に八十年代、女子の買うバレンタイン・デーのチョコや、男子がデートに誘うために買う車、クリスマスや誕生日のたびに贈られる有名ブランドのアクセサリー、スキーやテニスで泊まるケーキみたいな外観のペンションと、恋愛はとにかくお金のかかるものだった。つまり、たいへん贅沢(ぜいたく)なものだったのである。

 そういう贅沢をさせてもらって、ようやく女子は結婚に踏み切る、という儀式のようなものがあった。つまり、女の子は自分にいくらの値段がつくのか試したいのである。その実績を思い出としてたずさえ、家事、育児、介護という主婦としての労働が待つ結婚生活へと突入していくのである。

 OLをしているとき、お弁当を食べながら、絶対に売春なんてイヤだよねぇという話になった。三十万円でもイヤだよ、いやいや百万円でもイヤだわ。じゃあいくらならやるのよ、という話になった。二千万円でもねぇと同僚はしぶる。誰かが、家を買ってくれたら、いいんじゃないのと言い、そこにいる者は、家だったらねぇと同意した。当時、一戸建ての家は相当な値段だった。でも、それって結婚なんじゃないのと誰かがつぶやいた。そこにいた全員が、はっとした顔になって、その後、暗い顔で「そうだよねぇ」と息を吐き出すようにつぶやいた。

 すでに当時から、結婚は若者にとってリスキーなものだった。そのことをしばし忘れさせ、現実を甘くくるんでくれるものが恋愛だったのだと思う。

 その甘くくるむものの正体は、自分につく値札である。仕事や家庭でさんざん価値がないと言われ続けている人が、恋愛をすると自分には価値があると認めてもらったような気がする。結婚前、高い値段がついていた自分自身をもう一度確認したくて、主婦が不倫に走るのだとすると、ちょっと切ない。それは、今の生活を不幸だと思っているからに他ならないからだ。

 昔、つぶれそうなレンタルビデオ屋さんの店頭のワゴンに、アダルトビデオが二束三文で売られているのを見て、ついにセックスの値段はここまで落ちたのだと思い、「やった」と私は叫んだ。このまま、タダになってしまえばいい、そう思ったのである。

 そもそも、なぜ自分のセックスに値段がついているのだろう。せめて、それぐらいは売り買いできない、自分自身のものであって欲しいと私は願う。

 高価そうな物をちらつかせ、あるいはスカートの下をちらつかせながら、あなたにはそれだけの価値があると言って近づいてくる異性がいたら要注意である。私たちはタダであることを思いだそう。道に落ちてる子猫と同じで、何の価値もないですと言おう。ご冗談でしょうと笑い飛ばして、自分を自分自身のものにしておこう。

(脚本家)