藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

自らの手に余る技術。

ちなみに資本主義が成功したのは、共産主義より優れていたわけではなく、少なくともテクノロジーが加速度的に変化する時代には、分散型データ処理が集中型データ処理よりも上手くいったからであると説明されている。

確かに共産主義は集中型だ。
一週遅れて中国やロシアその他が力を増しているのはここ数年の驚きの特徴だ。

つまり「データ処理方式」の成否が現代のテクノロジーの肝になっているということになる。

そして、そのテクノロジーはどこに向かうのか。

(AIやIoTビッグデータで加速度的に「データ社会化」が進む現在を)
これは人間至上主義を追求するために必要な行為なのだが、データが増えていくにつれ人間から情報ネットワークへと権力が移行してしまい、人間至上主義の基盤が崩れてしまう可能性も否定できないのだ。

データを処理するシステムを考えていた人類。
データが可及的に増え、その数がはるかに人間を超えれば「人間よりもデータ」が色んな判断の主流になる、ということは十分に起こり得る。

人が扱うデータの規模が、技術のおかげで桁外れに大きくなり、自らの制御の範囲を超える。
人は自分自身の意思よりも「データやネットワークの特性に従う」ということもありそうだ。
それでも人はまだまだ「そちらの可能性」に向かって突き進むだろう。

ユヴァル・ノア・ハラリの予言は、現実のものになる前に諌められるだろうか。

人類は不死と至福と神性を目指すようになる

続編は前作を超えない、そんな通説を吹き飛ばすような会心の一冊だ。人類の来し方を描き、全世界で800万部を超えるベストセラーとなった『サピエンス全史』。これを受けた本書『ホモ・デウス』では、人類の行く末を戦慄の姿として描き出す。

■人類はホモ・サピエンスからホモ・デウス

過去何千年にもわたり人類を悩ましてきた問題、それは飢饉、疫病、そして戦争の3つであった。しかし驚くべきことに、我々は飢饉と疫病と戦争を首尾よく抑え込みことに成功し、この数十年で理解も制御もできる対処可能な課題へと変えることに成功したのである。

 ならばそれらに替わり、新たに人類が取り組むべき課題とは何になるのだろうか?  著者のユヴァル・ノア・ハラリは、人類が不死と至福と神性を目指すようになるであろうと予測する。それは人間が自らを神へとアップグレードし、ホモ・サピエンスからホモ・デウスへ変わることを意味する。

重要なのは、予測の根拠だ。本書の前半部では前作同様に、我々を我々足らしめているものとしての虚構に着目する。私達は虚構を信じる能力によって上手に協力することが出来るわけだが、一方で虚構には代償が伴う。会社、貨幣、国家……。虚構に過ぎなかったものが知らずのうちに強大化し、虚構によって私達の協力の目標が決まってしまうことも多々あるのだ。

 まさに虚構が現実を生み出したと言わんばかりの人類の歴史ではあるが、我々にとって必要不可欠な協力システムがこの先どのようになっていくのか?  そしてそれによって我々人類はどのように変わっていくのか?  人類の行く末もまた、虚構という概念から導き出していく。

まず最初に驚くのは、現在多くの人にとって当たり前の概念になっている人間至上主義、この構成要素をことごとく虚構にノミネートしてしまうことだ。私達が素晴らしいものと信じて疑わない自由意志も、もっと言えば自己という存在そのものも虚構にすぎないというのだ。この背景には、かつて私達の外界の道具として使われてきたテクノロジーが体内に入り込み、肉体や精神を制御し始めているという事実がある。

 歴史を学ぶことの意味はいくつもあるが、ハラリはこのように私達が暗黙的に受け入れている前提条件を取り出すのが実に上手い。さらに歴史学者としての視座から、現代社会やテクノロジー・サイエンスといった他分野の最先端を切り取っており、指摘の鋭さに目から鱗が何枚も落ちることだろう。

2つ目の驚きは、後半部にやってくる。過去の歴史から未来を見通すために、人類という種全体を単一のデータ処理システムと解釈していく。崇める対象を神でもなく、人間でもなく、データに設定してしまえば、過去と未来、そして生物学とコンピュータ科学、またリアルとバーチャルも同じ土俵の上で統合的に扱うことができるのだ。

 この視点は、実に興味深い事実を明らかにする。たとえば資本主義と共産主義は、競合するイデオロギーでも政治制度でもなく、データ処理の仕方の違いにすぎないのだという。資本主義が分散処理を利用するのに対して、共産主義は集中処理に依存しているというわけだ。ちなみに資本主義が成功したのは、共産主義より優れていたわけではなく、少なくともテクノロジーが加速度的に変化する時代には、分散型データ処理が集中型データ処理よりも上手くいったからであると説明されている。

 さらに歴史全体をデータ処理のシステムの効率を高めるプロセスと捉え、一人ひとりの人間をシステムのチップの役目を果たすものと見なせば、私達の進化の歴史は以下のようなSTEPとして記述することも出来る。

?プロセッサーの数を増やす
?プロセッサーの種類を増やす
?プロセッサーの接続数を増やす
?既存の接続に沿って動く自由を増やす
 認知革命によって虚構という協力システムを得たサピエンスは、異なる土地に分散することで多様になり、人間というプロセッサーの数と種類を増やした。やがて農業革命によって人口増加が加速すると共に、多くの人が近接して暮らすようになり、プロセッサー間の接続数が増える。最後に自由市場や民主主義の普及などと相まって情報の自由度が高まったというわけだ。

■人間至上主義の追求は人類の凋落へつながる

人間至上主義の代表でもある民主主義や自由意志に則ってデータ処理の効率が高まり、人間が神へとアップグレードするのならば、人類の未来は明るいのかと思いたくもなるが、ハラリの予言は悲観的だ。一体なぜ人間至上主義を追求する試みが、人類の凋落へつながっていくるのか?

その兆候は、すでに現れ始めている。私達は健康と幸福と力を与えてくれることを願い、自らの情報をネットワークへと差し出し、「すべてのモノのインターネット」の構築へと励んでいる。これは人間至上主義を追求するために必要な行為なのだが、データが増えていくにつれ人間から情報ネットワークへと権力が移行してしまい、人間至上主義の基盤が崩れてしまう可能性も否定できないのだ。

 今やパソコンはネットワークにつながらなければ、ただの箱である。あるいは自動車も自動運転システムというネットワークに組み込まれることによって同じような運命を辿っていくのかもしれない。人類とて同様ということだろう。ネットワーク化が加速することにより、人間が時代遅れのアルゴリズムに成り下がってしまうとは、なんと皮肉なことだろうか。

一見単なる悲観論のようにも思えるが、そこに未来を変えようという強い意志を感じ取ることができるのも事実だ。虚構の力を誰よりも知る歴史学者ハラリ。彼が描く虚構の未来を、人間ハラリはそれすらも虚構にすぎぬと喝破する。そんな二重構造が見て取れるのだ。

 右の手で人類をバッサリと切り捨てながらも、左の手では未来を変えうる人間の可能性をどこまでも信じる。ハラリの知性が、共感を呼ぶ所以と言えるだろう。ちなみに本書は、9月6日発売とのこと。