藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

無限の描写力。

欧州にも中国にも短詩というのはあるらしい。
けれど俳句が、無駄のない突き抜けるような爽やかさで「何か」を伝えようとする感じは日本人だからだろうか。

信濃なる千曲の川のさざれ石も君し踏みてば玉と拾はむ
読み人知らず(万葉集)

信濃千曲川の小石だって、君が踏んだものなら、宝石だと思って拾おう……

紫陽花に秋冷いたる信濃かな
杉田久女

(檻の中から仰いだ信濃の空は、どこまでも青かった。)
動物図鑑の最後ニンゲン雲うらら
紗希

最後は俳人である神野さんの句。
そしてこのコラム自体が一つの物語になっているところに唸ってしまう。
以前、遠縁の米国人に「ワビサビを教えてくれ」と言われて立ち往生したけれど、今度はこんな俳句の話をしてみたい。

これ英語で伝えられるだろうか。

八月の紫陽花 神野紗希
信濃なる千曲の川のさざれ石も君し踏みてば玉と拾はむ

読み人知らず

信濃千曲川の小石だって、君が踏んだものなら、宝石だと思って拾おう……。河原の小石という平凡な素材を核に、恋心を素直に詠みあげた和歌だ。日本文学史の講義で『万葉集』を取り上げた際、学生にいちばん人気だったのがこの歌だった。

「分かります。たとえば、アイドルがテレビ番組のロケで訪れた店を、ファンが聖地と呼んで、彼の座った席に自分も座りたがる、そんな気持ちですよね」

なるほど、的確な現代意訳。かつて千曲川のほとりで恋した名もない誰かの心が、千数百年以上たった今の若者の心に、さらりとシンクロする。肉体は消えても、心のかけらは言葉の中で、時を超えて生き続けるのだなあ。

そんな千曲川をはじめて訪れたのは、学生時代の夏休みのこと。句会に参加するため、友人と、長野の小諸を訪れたのだ。小石を宝石に変えてくれる恋人はいなかったが、千曲川の水量のゆたかさには驚いた。故郷・愛媛の松山は、慢性水不足で知られる土地で、我が記憶の夏の川とは、川とは名ばかりの、小石の原っぱだったから。

小諸城址(じょうし)の懐古園を歩き、俳句の素材を拾う。女郎花(おみなえし)に止まろうとホバリングするとんぼ、風に白くひるがえる葛の葉。東屋に出れば、8月になっても青さを失わず咲く紫陽花(あじさい)越しに、小諸の城下町が一望できた。

紫陽花に秋冷いたる信濃かな

杉田久女

初心者向けの俳句指南書ではよく、1句に季語を2つ以上入れる「季重なり」は避けよ、と書かれる。たとえば〈枝豆や秋の夜長に月を待つ〉という句があったとしよう。「枝豆」も「夜長」も「月」も秋の季語だが、月見に枝豆はつきものだし、そもそも月が出るのは夜に決まっている。たった十七音の中で、季語同士のイメージが重複すると、句の世界が狭まってもったいない。だから、不必要な季語は多用しないほうがいいのだ。

しかし、地方の特殊性を表すときには、季重なりが有効に働く。先ほどの久女の句、紫陽花といえばふつう梅雨を思うが、高原の信濃では、紫陽花がしおれぬまま季節が移ろい、いつしかひんやりと秋の空気が届く。季語「紫陽花」と「秋冷」のずれを意識的に用い、他と異なる信濃の風土をリアルに再現した。プロならではの技が光る句だ。

そういえば、懐古園の敷地には、動物園が併設されていた。散歩中のペンギンの行列と、細い坂道を譲り合ったのもなつかしい。印象に残るのは、園内に設置された、からっぽの檻(おり)。住んでいた動物が死んでしまったのかと思いきや、下がる札には「ヒト(人間)」とある。客がみずから中に入り、展示動物の気分を味わう、皮肉な趣向だ。

檻には「ヒト」の説明が添えられていた。「言葉を発する。文字が書ける」「頭は良いが、とても危険な生き物」。たしかに、檻の中で息をするどの獣より、人間は危険かもしれない。でも言葉があり文字があることで、私たちは、小石を宝石に変え、季節をありのままに受け止め、さまざまな感情を書き伝えてきた。そのゆたかさを忘れさえしなければ、私たちはきっと、道を踏み外さないで済む。

檻の中から仰いだ信濃の空は、どこまでも青かった。

動物図鑑の最後ニンゲン雲うらら

紗希

俳人