「損をすると思う方を選びなさい」
すなわち、人の嫌がることをやりましょう。
以前から「国境なき医師団」てすごい人たちだなぁと思っていた。
会長の加藤寛幸さんのコラムより。
その活動内容はそれで苛烈ですごいものだが、人はやはり「心」で動いている。
その間僕は工事現場のバイトに直行、泥にまみれていました。お金持ちになりたいと思いました。あまりに悔しくて。
そんな医大時代の加藤さんに転機が訪れた。
(プロテスタント教会長老の)
美川澄子というその年上の女性は、心を込めて小さな子どもやお年寄りの世話をしていました。
神々しく見えましたし、なぜそんな何の得にもならないようなことをしているのかと、こんな不思議な生き方があるのかと、雷に打たれたような気持ちになりました。
そして加藤さんにとって決定的な価値観の選択が訪れる。
何度か通い詰め進路の相談をするようになると、「損をすると思う方を選びなさい」と返ってきました。自分が得をすることばかり考えていた僕は、その言葉を「人が嫌がることをしなさい」と解釈しました。
そしてそんな話を聞いて、驚いている自分がいる。
「損を選ぶ」というのは「あえて」利を追うなという意味だろうか。
いや違う。
やっぱり「あえて、損を選ぶ」ということなのだ。
損を選べたら、すごいことになりそうだ。
国境なき医師団日本会長 加藤寛幸さん アリの視点で人道援助(3)
国境なき医師団(MSF)発祥のフランスには「ノブレス・オブリージュ(高貴なる者の義務)」という言葉がある。高い地位の人間は社会の模範とならなければならないという意味だ。「悲しんでいる人たちがいるのなら、駆けつけたい」(シエラレオネでエボラ出血熱を克服した患者と)
世の中には富める者や強い人たちがいるのは事実です。でも人道援助活動は本来、豊かな人も貧しい人もできる範囲で取り組むべきもの。人として当たり前のことをするのが人道援助だと思っています。
僕は全然ノブレスではありません。中学の時に両親が離婚し母子家庭で育ちました。一時期は生活保護も受けていました。空港建設の仕事をしていた父は離婚前も家を空けがちでした。
母はレストランで調理師として働いていました。夕ご飯の準備のためにいったん帰宅し、僕と4つ上の姉に食べさせて、また仕事に出かけて行きました。幼稚園ぐらいの頃、僕はそれが嫌で嫌で。すごく寂しくて。よく母親が自転車で夕食後仕事に行くのを、泣きながら追いかけていたのを覚えています。
援助活動に携わる根っこには、当時の自分の気持ちを埋め合わせたいという思いがあるように感じます。どこかで寂しがっていたり、悲しんでいたりする人たちがいるなら、そこに駆けつけたい衝動に駆られます。
1986年に島根医科大学(現島根大学医学部)に入学。格差との葛藤が続いた。
一度は北海道大学の理学部に入学したのですが、体調を崩し入院した経験や、医者を志していた親友を亡くしたことなどが影響し、医者になろうと思うようになりました。再受験の末入学した医大には、地方とはいえ社長の子弟などもいて、入学式にはBMWで来ていました。
僕にはそんな余裕はありません。生活のため、アルバイトは何でもしました。引っ越しの手伝い、飲食店、家庭教師など。級友はバイトなどしない人も多く、夏休みには海外旅行に出かけます。うらやましいと思いました。その間僕は工事現場のバイトに直行、泥にまみれていました。お金持ちになりたいと思いました。あまりに悔しくて。
そんな僕に、転機が訪れました。6年生になり進路に悩んでいた時期、親友に連れられて行った地元のプロテスタントの教会で長老と呼ばれる役職の女性と出会ったのです。
美川澄子というその年上の女性は、心を込めて小さな子どもやお年寄りの世話をしていました。神々しく見えましたし、なぜそんな何の得にもならないようなことをしているのかと、こんな不思議な生き方があるのかと、雷に打たれたような気持ちになりました。
何度か通い詰め進路の相談をするようになると、「損をすると思う方を選びなさい」と返ってきました。自分が得をすることばかり考えていた僕は、その言葉を「人が嫌がることをしなさい」と解釈しました。
美川先生の言葉はその後もずっと僕の指針になっています。恥ずかしいことをした後は先生に対し後ろめたい気持ちになりますし、ちょっと頑張った後は褒めてもらえるのでは、と思ったりします。この50歳を過ぎた今でも。