藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

度量の本質。

ほぼ日より。
時折こういうドキッとする生き方の話があるからやめられない。

二十歳のころのじぶんは、けっこう弱っていたので、
ほんとうのことを知るのが、つらかったと思う。
弱かったからこそ、そのことを見ないようにして、
ごまかしたり逃げたりしながらなにかをしていたのだ。

若いとか、弱いとかはこういうことなのだ。
二十歳の自分はなんと弱々しい。
弱くなければ気づかなかったこともある、と言いたい。

それでも二十歳の自分には「小狡くなるなよ」「なんでもないぞ」と言いたいし、それくらいしかかける言葉もないと思う。

歳を取ると(強くなると)見えなくなるものがある。
年寄りはだから、そういうことを「威張る」のではなく「若者を元気付ける」方向に使わねばならない、と思う。

「強いと弱い」を両方体験しなければならないのが人生か。
今は自分は強いのか、それとも弱いのか。

糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの今日のダーリン

・適度に不調でよかったなぁと思うことがある。
だれでも、いつも絶好調というはずもなく、
なにをやってもうまくいかないなぁという日がある。
天気のせいなんかもあるだろうし、
他の人の悩みを重く受け止めてることもあるだろう。
ただ食事を摂りそこねて腹が減ってることもある。
でも、「おれは弱ってるなぁ」と思わざるを得ない日が、
あってよかったと思うことがあるのだ。

こころが弱ってなかったら、
このことばは、あんまり染みてこなかったということ。
希望がかすんで見えなくなってたおかげで、
思ってもみなかった方向の、微かな光が見えたこと。
そんなことがあるものなのだ。

いまでも十分に弱っちいとは思うのだけれど、
もっとずっと弱々しい二十歳のころのじぶんのことを、
思い出してみる機会があった。
そのころのぼくは「なにをどれくらいできるのか」が、
まったくわかっていなかった。
いまのぼくなら、そのころのじぶんが、
「なにをどれくらいできないのか」を知っているから、
教えてやりたいくらいなのだけれど、教えないだろうな。
教えたらかわいそう過ぎるような気がする。
おまえは、掛け値なしに「なんでもないぞ」と
言わなければならないからだ。
ほんとうは、なんでもない、つまり何者でもないことは、
とても当たり前のことなのだけれど、
二十歳のころのじぶんは、けっこう弱っていたので、
ほんとうのことを知るのが、つらかったと思う。
弱かったからこそ、そのことを見ないようにして、
ごまかしたり逃げたりしながらなにかをしていたのだ。
生まれて20年も経ったら、かたちは大人なのだけれど、
たった20年で、それほど強くなれるはずもない。
二十歳のじぶんについて、弱いもんだなぁと思ったのは
もしかしたら初めてで、それは新鮮な見え方だった。
そんなふうに思えたのは、じぶんが不調だったからだ。
けっこう弱い人間が、次々になにかすることによって、
すこしずつ大人になっていく、そういうものだ。
なにもしなかったら、けっこう弱いはずっと続く。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
「おれも死んじゃうんだよなぁ」も、いい発見の素になる。