藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

最も安心するところ。

高齢者の介護相談に接しているとつくづく「家の存在のすごさ」に驚く。

認知症や疾病で入院している人たちの希望は「帰宅したい」がダントツに多い。
意識障害があったり、また重篤で自宅で過ごすのは困難である場合でも「それでも帰りたい」と。

帰巣本能という用語があるけれど、一体「家」というのはどれほどの存在なのか、とあらためて感じ入る。
家というのは道具(インスツルメント)ではなく、「精神的な籠(かご)とか繭(まゆ)」なのだろうと思う。

おそらく「そこ」に帰れば、どれほど外部で動き回り、活躍していようとも「自分」に帰れる場所なのだ。
元気なうちは、毎日ホテル暮らしでも平気かもしれないが、自分の体が衰えたり、(認知症で)意識が不安定になったりしたら「帰りたい気持ち」は余計に強まるようにも見える。

なので介護の相談を受ける際は、できるだけ「帰りたい気持ち」を優先するようにしている。
病気の治療とか、生活行為の不安とかはいくらでもある。

けれど「ご本人の気持ち」なくしては高齢者問題は解決しないのではないか、というのが最近の思いだ。

結局「そこ」から出発しないと、事態がどんどん進む中で「軸」がなくなってきてしまう。

親戚や家族が時々に口を出して、介護の方針が医者も含めて迷走し、結局「本人の思い」がどこかに行ってしまうのは避けたい。

家族同士のエゴが行き交う場面だから、根本的な方針はぜひ事前に見極めておきたいところだと思う。
関係者全ての「納得の軸」が必要だ。