藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

分類思考。

いろいろあるけれど。
「どれひとつとして同じ事件はない」
「どれひとつとして同じ契約はない」
「どれひとつとして同じ夫婦、家族はない」
「どれひとつとして同じ老後はない」

まあみんな「人間関係」とか「お金」とか「愛憎、欲望」とか「プライド」とかが絡み合っているわけで。
そこに「時代背景」なんてものも掛け合わさってくると、それは小説になるくらい色んなパターンがあるのだった。

で。
そういう「色んなこと」を何とかうまく知恵として「パターン化」するのがまあ人類の知恵なのだと思う。
(逆に「パターン化できないもの」はこれはこれで「創造性」という切り口では「レアもの」かもしれないので、これはこれで重要だ)
自分は社会人になってから
システム開発に携わり、
法律業界に携わり、
高齢者施策に携わってきた。

どれも「全く同じ再現性」は低い。(全く同じケースはない)
けれど「かなりの類型と、その後の枝葉」に分けることはできる。

経済評論家も、ビジネスマンも、金融アナリストも。
医者も弁護士も政治家も。
結局、「類型と枝葉」について「分類思考」をしているだけだ。

「どこからどこまでは分類ができ」て、「そこから先にもまた類型が考えられる」そしてその先には個別の(予測できない)枝葉がある。
今の専門家とかビジネスマンたちは、こうしたことを「作業として」ひたすら繰り返しているだけなのではないだろうか。

と自分は最近、強烈に思う。
「新しい事業を考える」とか「既存の事業の今後を思う」という大事なときに、
きちんと「方向性とか類型とか」を「分類しながら考える」ということができないと迷走する。

システム思考(分類)とアナログ思考(感情)の使い方こそ、が大事なのだと思っている。