藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

自分は空蟬

*[ウェブ進化論]自分を見る。

自分の好きなもの、好きなことを誰かに話していると、相手に「この人はどんなことで喜ぶ人か」ということが伝わるものだ。

そして同時に「自分という人間はどういうことに面白がる存在なのか」ということを気付かされる機会にもなる。

 

いつの時代も「他人は自分を写す鏡」なのだ。

重要なのは「他人に写された自分」を読み取れるかどうかである。

 

よくパワハラをしているご当人が「これは教育である」とか、セクハラをしている当人が「これは愛情表現である」というのは、「他人に写された自分を読み取る力」が欠けてしまっているのだ。

この「自分と他人の映像の対称性」が崩れた時に、人は自分を見失い始めるのに違いない。

 

「自分がどんなことに興味があるのか」ということは自分で自分自身を知るためにとても役に立つし、また「自分が他人にどう写っているのか」ということを読み取れれば世の中の人間関係はそれほどギクシャクしないだろうに。

「私はあの人と合わない」とか「あの人のことを憎悪する」というのは実によくある話だけれど、「自分の違和感を感じる部分」と「自分が嫌悪して我慢ならないこと」というのは「他人の目の立場」でよく感じてみれば、すぐにその理由がわかることが多いものだ。

 

"他人に写る自分を見る"ということができれば(他人の目に戸惑うことなく)ありのままの自分を把握することができるのではないだろうか。

 

「他人の目に写る自分」をみてみよう。