ミッシェル・ベロフ。
円熟のきわみ、と言ってよいだろう熟年ピアニスト。
1950年フランス出身の57才
「スーパーピアノレッスン」では繊細な感性に囁きかけるような演奏を指導する。
ドビッシーを弾くその指先は、指の重さを微量に調節して鍵盤を押す精密機械のようである。
フランス近代音楽の巨匠。
ベロフは語る。
「もし、ドビッシーに会うことができたら、この素晴らしい作品を遺してくれたことに感謝のお礼を言います。」
驚いた。
お礼。
何か質問するのじゃなく、お礼。
そして
「もしドビッシーの作品と共に無人島に流されても、私の一生はとても幸せでしょう」と。
その滋味に満ちた笑顔が強く印象に残る。
それから何か気になり、ずっと考えていた。
なぜだろうか。
そもそも、なぜそんなことが気になるのか。
自分の予(かね)てからの疑問と関係しないか。
もっと先が
数日前「読書とは何か」などと題し、読書などなぜするのか、を自分なりにまとめた。
主旨は「先人の知恵やメッセージから、自分の‘思考や生き方’の工夫を学ぶこと」だった。だから出来るだけ勉強しましょう、と。
だが、少し「しこり」が残っていた。
そんなお上品な、目的のためだけに、毎日毎日読書(勉強)するのか?
本当にそうか? と。
そうだ。
その先(あるいは裏?)がありそうだ。
時間のかかる、
日々毎日繰り返し、
地道な、
常に「上」を目指した、
基礎練習。
芸術にはつきものだ。
読書も、
まず言語を理解できていてこそ、
より色んな作家の作品と出会い、
どんどん複雑な思想や、高度な作品へと移り、
また世界中に範囲を広げ、
すればするほど鍛えられていく。
先にあるもの
快感。
が、あるのじゃないか。
ベロフはドビッシーの作品と共に世間と離れて孤島にいてもいい、という。
それはとても楽しい、と。
氏は近代ロマン派の作品を完全に楽しんでいる。
快感を感じているのだ。
おそらく作曲者と「同化」しているのだと思う。
読書も。
ほれ、そう言えば糸川博士が言っていたじゃないか。
「私はニュートンやガリレオなどと机を並べて仕事をしたことがある」と。
そのわけは先人の日記や論文を言語であたり、時代背景を想像しながら、体系的に読み込む、というものだった。
先人と、テーマを共有しているのだ。
研究者、と言われる人や、芸術家はみな最終的にはそのテーマを「快感に変えることができる人」ではないか。
そこまで極めた人なのだ。
おそらく自分が楽器を鳴らしたり、ブログを書いたりするようなものとは「違う次元のフィーリング」があるのじゃないかと想像する。
ベロフの笑顔を見ていて、ついに何となくわかってきたぞ、などと驕ってたが。
道は遠く。
おおそう。
ハノン、ハノンと。(汗)