藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

地球温暖化、とかCO2排出量規制とか、クールビズとかリサイクル法とか。


どれも急に取り上げられブームの域を超えず、また100年経ったら、いや20年経ったら環境に対する概念が変わっているのではないか。


などと思い、あまり一連のムーブメントには賛同できずにいた。


が。

自分たちの価値観を「環境を傷めない」というまあ「文明の発達とま逆」の方向に持っていくために。

価値観転換の必殺技か

会社の行為も、個人の行為も、
先進国も、発展中の国も。


餓死者が出ている国以外は。
みな同じ基準で。

もうCO2一辺倒なら分かりよいか。

大企業、メーカばかりでなく、個人にも同じメジャーが浸透すれば、一気にエネルギーの無駄遣いがなくなる方向にならないだろうか。


例えば自分も最近、街なかで思うのだが。
日本はおそらく世界一「高級車車」が多く走り、
しかもどの車もピカピカに磨かれている。


都市部だけじゃなく、どの地方都市に行ってもあんなに磨かれたタクシーが走っているくにはないのではないか。
あんなに鏡のようにするには、大量の水や洗剤やワックスなどを使うのだろう。
水も再処理するのはエネルギー仕事だ。
石油か原子力を使う。


二酸化炭素


第一、車そのものが内燃機関じゃない。
クーラー付けるのも。


海外旅行の飛行機とか。
電車とか。


通信とかコンピュータとかネットとか。

    1. 価値観と、それを計るメジャー。

エコロジーは急には進まない、とよくいうが。
案外、「ここまで」という線が特に日米欧あたりで具体的に出てくる日は近いのではないか。


高エネルギー消費を伴うような、「そういうこと」をする人間はイケてない、ということに。
パラダイム・シフト。


価値観がそんな風に変わる。

こんな話も「やらされ感」で制限されているのだ、という意識が働くと現在の中国やブラジルなど発展中の国の国民からすると「何で自分たちだけ、これからなのに。」という対立軸を生む。

先進国から一気に「手を放す」しかない。

モノの移動も
人の移動も
情報の移動も
カネの移動も

『このくらい』

このくらい、というのを計るメジャーがCO2排出量。

ライフスタイルを考えるようになる


まったく外出もせず、
車にも乗らず
移動せず、
本も読まず、
うまいものも食べず、
酒も飲まず、


では禁欲的すぎて長くは持たないだろう。


人間とはそんな生き物のような気がする。
(そういうことを「楽しむ」という遺伝子は重要なのだと思う。
そういう歓声が「エコ」などということにも自分たちに気付かせるのではないか)


なので自分たちで「個人の年間排出量枠」をきめる。
ジェット機に1キロ乗ったら10立法メートル、とか
クーラー一時間使ったら3立法メートルとか。

で一人当たりGDPとかに連動して「この基準を超えた国からは自動的に適用」と国際ルールを決める。


我われ個人は「年間1000立法メートル」とかの割り当てで、好きなことにそれを使う。
海外旅行が好きな人はよほど普段はCO2貯金をせねばならぬ。


と、ここまで書いてようやく分かった。

CO2が個人レベルでも「お金」になるのか。


排出権取引、を国レベルでやっている今、ピンとこなかったが。
個人になりゃ、これは分かりやすい。


もうエネルギー消費の時代は終わりだ。
もう少し計算が進み、「地球の耐えうる、限界値のCO2量」が判明すればさらにいい。


世界の人口一人当たり、に分配すれば、誰も異を唱えぬ最も透明なルールになるだろう。


そんな世の中も納得感があってよいと思う。


そしてそうなったら、人類の「適正人口」の問題も同時に解決するのだろう、と思う。


透明化された未来は、よほど公平なのだ。