藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

名人たちから学ぶもの。

梅田さんの棋聖戦観戦記シリーズ。


これはこれ単体でも面白く、さすが実践の「対局」ではなく「将棋観戦」を独立した趣味だと標榜する氏ならではの格調のある、また熱気がムンムン伝わってくる名記だ。


だが面白いのはここからだ。
上記の記事の執筆中、「はたして二人はこの対局が三年前にあったのを知っているのだろうか」など抱いた疑問について、羽生、佐藤をフォローし、追記する。
2008-06-12 - My Life Between Silicon Valley and Japan

ネットの記事をマニュアルで補完したわけだ。

これはこれで、控え室などで相当深い解説がプロたちによって交わされていた結果、を補完するものなので、相当面白い。
通常の観戦記などの倍は深みが出ていると思う。


ところがこれだけで終わらないのが梅田望夫である。
棋聖戦「孤独な営為に深い感動」というタイトルでこの勝負を総括する。


ここらが梅田節の真骨頂か。

醍醐味をつたえること


この記事は通常の「大事件なみ」のアクセスがあったというが、我われのような将棋、というよりむしろ「ヒーロー、達人好き」の一般人がもっとも興味のあること。


それは「影ではひたすら研鑽を積み」ながらも、それをことさら露出することなく、恐ろしく高度な技の応酬を互いに繰り返す「達人たちの戦いぶり」である。
凄み、なんである。


棋聖戦、という達人同士の一戦に「観戦の様子」を書ける人は数多くいるだろうが、このテイストの記事が書けるのは梅田望夫だけだろう。
ウェブ進化論以降、一貫して流れている梅田スピリッツは、将棋を通して見るとまた別の新鮮さがある。


例えばこんなところ。

加えて、終局後の佐藤棋聖、羽生挑戦者の姿がじつに興味深かった。


勝者と敗者は終局したとたん、2人で作った作品たる棋譜から適度な距離を置き(デタッチして)、健全な批判精神をもって、第三者のように語り始めたのだ。


自分の研究成果であろうと、皆と一緒になって批判精神で眺め、活発に議論する欧米の科学者たちを見ているかのようだった。

単なる感想戦の様子のようだが、それまでの息苦しくなるような緊迫の空気から、一気に解放された直後の描写だから新鮮なのだ。

将棋界の2つの最高頭脳が火花を散らす対局室という現場は、日本中、いや世界中どこを探してもみつからないような荘厳で厳粛な不思議な空間であった。


孤高の脳。私はそんな言葉を思った。

この描写が実に効いているではないか。


また記録係の田島三段の整然とした仕事ぶりを褒めようと声をかけた梅田氏に、佐藤棋聖から発せられた言葉。

しかし彼が私に何か返答する前に間髪入れず、佐藤棋聖が真顔で厳しくこう言った。

「修業ですから」


「あんなこともできないようでは、その先にプロとしてやっていくことはできませんから。
プロの仕事はもっともっと大変ですから」


佐藤棋聖の言葉に、私は震えた。現代日本が忘れてしまった何かが、そこには凝縮されていたからだ。

大変な努力のあとなど、チラとも見えぬ。
が、こんな会話にその日常の苛烈な修行ぶりが窺え、そんなことにまた自分たちは興奮を覚え、感動するのだ。


今後の展開も、とても楽しみにしている。