藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

心の囚われ


西山さんの新作CDが発売。
届くのが楽しみだ。

パララックス

パララックス


JAZZレッスンも9回を終え、ひょんなことからクラシックの弾き方を見てもらうことに。
驚く。

心得違いをしていた。


スタカートが弱い。
できてない。
手の形が不自然。
手首が下がりすぎ。
脱力。
歌っていない。
運針が不自然。


そんなことが一辺に判明する。
聞く人が聞けば分かるものだ。


自分の演奏する姿を見て、どうも手がツッパリ気味だなぁ、とは思っていたものの。
こりゃJAZZのアレンジどころよりは、基礎のキソの話だわい。

幾分めまいを感じながらも、どうしてだろう、と考える。


何がおかしいのだろう。

「囚われ」の正体


この正体は「囚われ」だった。
この音をこんな風に弾いてやろう。
こんなメロディを出してやろう、という思い。


これが根本的に「体から力を抜いて」本来の音を出す、ということの障害になっていた。
よく人前でアガってしまう、というのがあるが。

幽霊の 正体見たり 枯れ尾花

あれである。
アガるのは、自分に「よくしてやろう」「よく見られたい」という「我」があるからである。

ところが。
ところが本人はとんと「そのこと」に気付いていない。
「これ」が自我の正体だった。


プロがアガらない、のはプロは「そんなこと」を考えていないからだ。
ということがようやく分かった。(嘆)

毎度ご苦労なこったが、これは自分には大きな、とても大きな収穫だった。

これまでの自分の生活の、ほぼすべてに共通する、影響することだ。
それほど「そんなこと」が分かってなかったのか、とも思うが、しかし大きい。


あらゆる物事がそうなんである。

いやはや、習い事とか芸術とかいうのはオソろしいものだ