藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

景気を見る目、感じる力。

景気、について


自分のこと。
特に「経済」などを意識し始めた90年ごろ。
まあ就職などを控え。


やはり「学生さん」という蚊帳の外にいるとゼンゼン現実感がなかったが、そんなお惚(とぼ)けでも「これからの時代は何がいいだろう」などとようやく考え始めたところのこと。

思えばバブル最盛期、頂点からド不況への90年代の「失われた10年」。


そして2000前半のITバブル。
そして戦後最大の景気、という実感の薄いまま今回の世界同時不況。

いつも「未曾有の」出来事、と聞くばかりで、都度、「目が回っているばかり」だった。

景気の空気、がフムフム、自分の感覚と同じだワイ、と思えたことなど一度もなく。
日銀が景況感「36ヶ月連続上向き」と聞いても本当に今がそうなの?、といつも思った。
また90年代のバブル崩壊時には「まあ不景気だけれど、食べていけないほどでもなく」というくらいの実感だったのだが。
土台元がニブいのか。(訝)


そしてこの度は「100年に一度」の恐慌だという。
本当か。と思う。


そりゃ「それ以前」からみたら格差は大きいのだろう。
リアル経済が金融の爆風を受けて被害を受けていることも分かる。
それでこの度感じていること。

経済の一回性


いつもなぜ景気がいいと言われるのか。
なぜ不景気、と思われるのか、というのをその度に不思議に思っていたが。
どうも「理屈の目」が違っていた、というか視野の範囲が狭かったのだ、と最近気づく。


これまで景気不景気は何度も「うねり」をもって来たが。
それらは常に経済学者やアナリストたちに説明されてきた。
それは「今回の出来事は中国の内需が急騰したわけで」とか
「今回のアルゼンチンの債務不履行で、ドルや国債はこんな影響をうけて」とか、
解説がどうも「局所的」だった。
もっともそれは「その部分」では正しかったに違いない。
何せ優秀なアナリストの言うことである。


だが現実世界は、方程式の変数が多すぎて、まったく複雑系でしかないようだ。
そんな中では「最終的にこうなる」という「結果の予測」というのは常に表裏になる。
最後の最後に、例えば市場心理を冷やすような「−」がかけ(×)られれば、「解」は完全にひっくり返る。
そもそも「全体のプロセス」を理解することそのものが肝要で、最後のプラスマイナス、を追求すること自体が非常に皮相的な振る舞いだと思う。


為替がどちらに動くか、とか国債金利の関係、とかマクロでの「傾向説明」は結構なことだが「今年の年末は○円程度の円高になる」といった予想はむしろあざとい。


この類の情報に「いかに翻弄されないか」がフラフラしないための生きるコツだと思う。