藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

財産と平常心の関係


財産がある。
それがそれほど多くなくとも。

恐らく、富を遺した本人はそれが「仇」になろうとは露ほども思わぬだろう。


これをやり切るシステムが家訓とか、家風とかいうものだろうか。
もらう側は絶対的に「あるもの」として行動し、諍うのだ。

これは子供が親とまったく違うマインドセットであることから生じている。

親にはこれが分かってないのだ。
親バカとはよく言ったものだが、まったく親というのはどうしようもないところがある。
自分のことと、その次に子供のことには冷静でいられない。

それにしても、せっかく自らが汗して残したものが、最も「子孫のためにならないタネ」になっているとしたら、勘違いの極み、不幸なことである。


子供は殆どの場合「当然自分に与えられるもの」と思っている。

なぜ「それが存在するか」ということにはまったく思考が及んでいない。

スーパーなおめでた度合いだが、ご当人はいたってまじめである。
自分は非常に身近なあたりでも、「現場」を目の当たりにして真に驚いたことがある。


思慮分別のある大のオッサンオバハンが、目を剥き、鼻息を荒げ、大声で怒鳴り散らす。
「なぜ私がもっともらえないの!!」
「私の権利でしょ!!」
「誰が一番面倒みたのよ!!」


いってるテキストだけを見れば幼児のそれと何ら変わらぬ。
そして顔は修羅の形相。


正気でなく。

金は人をこんな風に変貌させてしまうのか。

若いうちにお勉強、お勉強。

残す側、の責任


親の思いと、子供の所作があまりに違うので、傍から見ても無念を感じずにいられない。
親の思いの百分の一でも子に伝わっていれば、こんな事態は防げたのになぁ、と今さらながらに思う。


何より蓄財し本人の意図は丸つぶれである。浮かばれぬ。

親の愛情が裏目に出る最大の瞬間。


万一、家族間で諍うのであれば、財産そのものが消滅する。


そのような配慮は、結果的には必須ではないか。
多寡の問題ではなく、そんな配慮も後世への教育なのだ。


自分はそんなに残さぬだろうけど、(だからかな)そう思うのだ。