藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

内田樹の結婚より。

内田樹さんの結婚にショックを覚え(何でかな)、うーむいろいろな人生があるものだ、と一人考え入る。


そういう意味では、あの膨大な量のブログやら著作やらから受けた影響の「全ての和」を凌駕してしまったくらい、あのjust marriedのエントリーは自分にインパクトを与えた。
案外、web上にそんな人は多いのではないか。
自分の貰った反響からそんなことを考える。

行動は百言に勝る、ともいうが、さもありなん。

婚活について、恋愛について、生きることについて、あれほど語っていた内田氏が、スパッと結婚。
しかも最高の式次第で、である。

その潔さに多分自分たちは「自ら行動を示す、オピニオンリーダー」を見ているのだろう。
自分の受けたショックはそのようなものだ。

そして人生、何歳になっても自分の意志で、しかもアクティヴに決断できなければいけないな、などと感じている。


そう言えば、自分は会社で、一昨年前まで、毎年一度「中期経営計画発表会」なるものを開催し、事業の将来の予定や、会社の理念何かを話していた。
その中では「社員総社長化計画」と題し、「みんな経営者の感覚になって」と悲愴な叫びを上げていたのだが。


みんなすでに経営者

朝起きて、学生さんは学び舎へ。
社会人は会社へ行く。

そんな日常には、あまり「決断」などない。

・・・

しかし一方、
今日あの娘に手紙を渡そうか、
あいつと今日はとことん飲もうか、
今日はカミさんにこういう話を相談しようか、とか。


そんな人生の「一つ一つ」は、まごうことなき決断であり、「自分という人生」の経営そのものではないか。
何だ。


声高に社員に「経営者感覚を持て」とかギャーギャー言ってましたが。

我われは生まれながらにして経営者だったのだったのだった。


自分たちは結構幼いころから、自分自身の判断での「決断」というのを繰り返してきている。
問題は、それをいちいち「決断」という行為としてとらえるかどうかである。


惰性の日常の一環と思えば、あまりシャープな考えも浮かんでこぬ。

逆に「今日の夜の過ごし方」を考えるだけでも日々の重要な決断だ、と考えられれば姿勢が変わってくる。

日々、自分の生きることに「積極的に決断する」という姿勢を持てるかどうか、ということ。
内田樹師匠の結婚、ということから、自分はそんなメッセージを受け取った。


それにしても、人間「行動のすごさ」というのは最近頭でっかちになっていた自分には「ガーン」という衝撃が走った。
人生、常に「実戦ありき」である。