藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

若い日に注意しておくこと。


十代なら十代。
二十代なら二十代。
三十代なら三十代。で、
四十代なら四十代。(ここまで)


その時代に「それなり」の参加者意識で時代を過ごしていると、なかなか「その時代の注意点」みたいなものに気が回らない。
ということに最近気づく。(汗)


で、近ごろは自分が三十代や五十代でもなく、もっと若くもベテランでもあるような気分で、いろんな人の本音を聞いてみる。
すると。
奇妙なことに気づく。

・二十代で、「将来への不安」を口にする人はほとんどいない。
・二十代の話題の中心は社会人になりたての、これまでのギャップやトピックをまず話し合うことのようだ。
・三十代では、「将来について」を話す割合は二十代の倍以上には増える。だがそこでも真剣に将来を考える人は少ない。
・四十代、特に中盤からは典型的に「先を案ずる声」が高まる。みな真剣であり、もう「ある種の諦観」すら感じられる人もいる。


要するに、そんなことなのである。


大企業のサラリーマンで五十代を迎えるもよし。
中小企業で要職に就くもよし。
個人事業主でフリーになるもよし。


そんな状態、、実は重要ではないようだ。


人生の決算はいつ


問題はどうやら「六十才」以降の過ごし方、に収斂される。
カネがあろうが、なかろうが。
(一見裕福なら、有利に見えるが実はそうでもない。)

二十代に自分の日常生活がヒマで、とてつもなく退屈する人、は稀である。

学生にせよ、社会人にせよ、恋愛にせよ、何か周りの環境の変化が目まぐるしく、またある意味「新鮮」で、そんな周囲の変化に対応しているだけで、ずい分と時間は経ってしまうものだし、むしろ「遊び時間とか、仕事の時間が足りないよ!」と思ったものだ。


自分も朝から終電まで働いて、たまの休日にはそれでも皆で海にいったり、まあ「目一杯」忙しくしていたものだな、と思う。


それが、三十を超え、四十に至ると、ずい分趣が変わって来る。
「今を燃焼するだけでは納得できなくなる」というか。
体力的に今を完全燃焼していないのかもしれない。


ともかく、「今があればそれでいい」とは思えなくなってくる。
そうすると、とたんに「先」を考える。


このあとの五十代、六十代、いやそれ以降のこと。


自分には「何か」あるか


もうそうなったら、遊びではない。
仕事でももちろんなく、形だけの勉強でもない。
上辺の映画鑑賞も長続きはしない。

とどのつまり、「一生を通して熱中できるもの」を求めるようになる。と思う。


では何が言いたいか。
「そんなもの」を二十代、三十代から「視野」に入れておいて、「いろいろと」興味の先を考えておいた方がいい。
若い時に、時間の消費にボーリングやカラオケに興じることはある。
が、それは決して老いらくの趣味、にはならない。


読書でも観劇でも、研究でも芸術でも。
何でもいい。

将来「これに携わっていれば生活していられるもの」を実は若い人は今のうちから視野に入れておきべきだ。
ビジネスマン人生を全うした実力者が、そのまま無趣味にボケていくのは、なんとも無念であるし、悲しい現実でもある。


人が一生を通じて、その幼年時代から、義務教育、学生時代、社会人を経てゆく中で、もっとも重要なのは「最後の過ごし方」ではないだろうか、と昨今は思う。
最期の「そこ」にその人の人生観や生き様の結末が見えるように思う。


途中が華々しければいい、というものではない人生とは、なかなかに難しいものである。