藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

またしてもソフトウェア。

物より想い出だよ、ね。
フジノくん。


とは、中学時代に初めて付き合った同級生が囁いた一言。
これは、初デートの場所を、いかに「いい」ところにするか、をああでもない、こうでもない、と悩んでいる自分に彼女が発した一言。
ハッとした。


中学生の自分たちは、そんなにムードのある大人のカフェに行かずとも、町のはずれの映画館と公園で「大事な時間の共有」ができれば十分だったのである。
若い自分には分からなかった。そんなこと。
というと、女性というのは男より遥かに大人なのかもしれない、と今気づく。(汗)


「モノより、想い出」。
どんな豪華な食事とか、
衣服とか、
住まいとか。


「それ」が幸せを生み出さないことに「それ」を追いかけているうちは気付かない。
自分の知り合いにも数億円の豪邸に住みながら、寒々しい日常を嘆く友人が少なくない。
みな、何かを忘れているんだな、などと思う。
自分もか。(嘆)


海外で得る「物より思い出」


何でそんなことを思い出したのか、というと今回の海外出張。
思えばこれまでの数十回の出張で、心に残るのは何だったのだろう。
今回の米国出張でひどい時差ボケに苛まれながら、ふと考える。


ベトナムとか、ミャンマーの遺跡だろうか。
標高数千メートルの高原地帯の様子だろうか。
中国太湖の海のような水面だろうか。
いいや、何か違う。


ミャンマーの辺境の村落に住む、二十代の青年。
タイで政治家を志す、若き女子学生。
中国で立身を志す、地方出身の若者。


中国や東南アジア各地にもずい分見ごたえのある遺跡や文化遺産は数多くあった。


けれど、それらへの郷愁などあまりない。

それよりも、そこで出会った人たちの一人一人の思い、がよほど懐かしい。


「モノより想い出」。

それは数々の現実を旅してきて、そして最後にそれらを振り返ってみて初めて持てる達観なのだろうか。

それにしては、女性はずい分ススんでいるではないか。

自分たち男が「モノ」を探している間に、きっちりと「ソフトウェア」を見る「目」が養われているのだから。

まったく女性にはかななわない。