藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

記録から見る自分。

何にせよ、物事がうまくいかない時に「何が問題か」を突き止められたら、八割方は解決しているという。
糸井さんのブログより。
酒が好きとかお洒落が好きとか、モノの蒐集が好きとか。
確かにそれが「酔っ払うことなのか、その先の気分が好きなのか」。
洒落モノが好きなのは、それで誰かに見られることが目的なのか。
蒐集家は、自分が色んな物を集めてそれをどうしたいのか。

自分たちの行動の「すぐ向こうには何があるか」ということには案外思いが及ばない。
日常的に標榜している自分の好きなこととか、自分の仕事の仕方とか、人付き合いとか、趣味とか生活の習慣とかは、実は「その先にある自分の深層の何か」を示していると言えそうだ。

事業家を観ても、ひたすらに拡大を目指す人とか、自分の専門にこだわる人とか、新しいことにばかり挑戦するとか、ずい分スタイルが違う。
皆自分の行動は実は「自己表現」でしかないのかもしれない。
そういう色んな行動が自己表現なのだとしたら、その自分の行動を見て「自分って何をしているのか」を鏡に映してみるいい機会なのじゃないだろうか。
岡目八目、自分の姿こそが自分に見えていないというのは、これまでよくあったことである。

予定を書く日記や手帳でなく、自分が何者かを探すための記録を取るのも自らの理解には有効なようである。

・「じぶんは何が好きなのか」ということを、
 はっきり知っている人は、幸福だと思う。
 「そんなの、だれだって知ってるよ」
 と言う人もいるだろうね。
 いやいや、そういうことでもないんだよ。

 たとえば、「酒が好きでたまらない」という人は、
 それはもう、きっと酒が好きだよね、わかるよ。
 ただね、それって、酒の味が好きなのか、
 酔っぱらうことが好きなのか、
 酔ってなにか忘れたいのか、
 酒を飲む場面で友人と話がしたいのか、
 酒のつまみや、酒のある食事が好きなのか、
 酒をすすめる女性が好きなのか、
 酒のせいにしてなにか言いたいのか、
 酒のことをいろいろ語りたいのか、
 けっこういろいろあると思うんだよ。
 「そんな理屈っぽいことを言うな」と思われそうだけど、
 ちがうんだもの、「好き」の意味あいが。
 うちの父親は、「酒好き」だと自他共に認めていた。
 だけど、晩年になってから「酒が好きなんじゃない」と、
 しみじみ言っていたから驚いたよ。
 「酔えればなんでもよかった」とかね。
 いや、やけっぱちで言ってたのではなく、
 年とってからそのことがわかったんだと思うね。
 「何某さんは、ほんとに酒が好きなんだ」とか、
 じぶんとはちがう正真正銘の酒好きの名前をあげていた。

 そういう流れで、ついでに言うとね。
 「女が好き」とかって公言している人たちについても、
 女っていうことばに含まれている何が好きなのだろうね。
 けっこう、じぶんで確かにわかっている人って、
 なかなかいないような気がするんだよね。

 実は「仕事が好き」にしても、「金が好き」にしても、
 ずっと経験を積み重ねていくうちに、
 「そんなでもなかった」と思う可能性もあるよ〜。
 そういう疑いの目で、「好き」をよくよく見つめてさ、
 その上で「好き」なものごとを発見したら、
 それはもう、ほんとに幸せなことだと思うよぉおお。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
それはそうと、好きが多いのは、なんにせよ幸福なことだ。