藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

異質なものを取り込む力。


ついに。
ついに、現代を生きる自分たちが必要な要素を突き止めた。


もちろん、それはそういう「勘違い」をしているのかもしれない、というくらいの謙虚さは知っている。
だが、それでも自分たちの活力の源は「そこ」にあるという気がしてならない。

それは「異質なものを取り込む力」である。


よく医学では「免疫」という。
ある外部からの攻撃に対して「免れる力」という意味である。
医学的見地からいえば、なるほどという感。


だが、生活サヴァイパルから言うとそうではない。
「外部の異質物」をいかに自分の体を根本的に損なわずに取り込むか。
これこそが次世代の繁栄の根本ではないかと思う。


つまり「外部と戦う」とか「内部を守る」という発想そのものが、スケールとしては小さいのではないか。
いかに、自分と違う体質の、自分とは「相容れない性質や、組織や、ポリシー」の「外部者」と付き合うか。


そういう「それら」と対峙し、「勝ったか負けたか」ではハナからなく。
いかに「それら」の良いところと短所とを見極め、「家族的に付き合うか」。

本当の幸せ


そんなある種「博愛的」なことを今自分たちは、この飽食の時代に試されようとしているのではないか。

NHK大河ドラマ坂本竜馬の纏う「雰囲気」、今の時代の人々を魅了してやまない「主義」とはそんな「異物の受け入れマインド」なのではないかと思う。

自分の幼少時を思い出す。
身体の不具合のある学生や、国籍の違う生徒を無言下に「別視(蔑視)」する雰囲気が、確かにあったと思う。

思えばまだ日本が終戦からようやく二十年経とう、というころの幼い時期ではある。
だが、その時期に「幼時」を過ごしていた人たちの心には、少なからず傷跡は残ったであろうと思う。



そんなことはともかく。


これからの時代、人種差別はすごい勢いでなくなるだろうし、また富の大小で付き合う階級的な段差、というのも急速に狭まるのではないか、という気がしている。(だってそういうのは下らないもの。)
そんな時代の「次の価値観」の中で、一番必要で強い考え方はどんなことだろうか、と思う。


これからの生きる力。


それが「異質なものとの対峙力」だと思うのである。
思えば、自分の時代にもそうだった。
いわれなき差別をされる「いじめられっ子」と対峙していた芯の強い女子は、自然と「マドンナ」となり、クラスの男子の憧れとなっていた不思議な図式があった。


ただ「反抗」すればいい、というのとは今の時代、ちょっと違う。
やはりあくまで「自分と違う異質なもの」への対応の柔軟さ、なのだと思う。


「絶対」を排し、何物をも「あろうこと」と思って対峙する、というその態度が、なによりもこれからの「外交スタイル」なのではないか。


一見、外的に攻撃的なワクチンや、あるいは国が、以外にそのポリシーなく、持続性がなかったりすることは、自分たちはこれまでの歴史であまた経験してることである。


見た目は派手でなくとも、「ねばりと包容力のあること」というのは最終的に「長い付き合い」をする上では必須の友人関係なのではないかとおもうのである。


時代が、どんどんデジタル化すると共に、wetな「ねばり」とかの関係は一層深く未練を残すようである。