藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

核心のテキスト。

糸井さんのブログより。
いつも、こんなことを書きたいなぁ、と思っていることがハタと取り上げられている糸井ブログ。
何か得体の知れない感受性とか、垣間見る言葉遣いの鋭さなんかを感じる。
自分が本来の日常では感じる術のなかったテキストに、毎日触れられるような便利さこそがwebの凄みではないいだろうか。
で、今日の話題へ。

いざ本気でなにかを始めると、
 苦労だの苦難だのがざんざかざんざか押し寄せます。
 「なんでこんなに難しいんだ!」と、なりますが、
 それは、もう、引力の法則みたいなもので。
 やればやるほど、簡単じゃないことがわかってきます。
 仕事だって、勝負事だって、家庭だって、人生だって、
 「簡単ではない」ということについては、みな同じです。

と、ここまでが前説。
この七行は殆どの社会人とか思春期の人に当てはまるのじゃあないだろうか。
本気で何かを始めると、水の中で泳ぎ出すように「自分の体の外部の全て」が抵抗になる。
なにも本気でやっていなかったときには感じかった物理的な抵抗が、何かを始めると途端に摩擦になる。
社会に出た時には特に皆が感じるのじゃないだろうか。
そして、核心へ。

 それを、「逃げずにねばれるか」の連続なんだと思う。
 やめるときの「引き際」と、続けるときの「ねばり」は、
 いっぱしの人は、みんなすごいですよね。

「逃げずにねばる」。
このことのすごさを、自分は今までの人生経験の中で、少しは身近に感じる。
逃げずに、そもそも相対しない。
遭っても正対しない。
勝負になっても必要以上にねばらない。
そんな日常はなんと多いことか。
つまり「逃げずに組み合うこと」というのは面倒くさいし、体力を使う「しんどいこと」なのである。
しかしそれをどれほどやれるか?ということの大事さを、大人たちは知っていると思う。
だから、意外に多くの大人たちは「組み合って」いるのだろう。
"逃げすにねばる"はカッコ悪いけれど、生きていく上では大切なふるまいなのに違いない。

 
・昨日、ここで「悲しみと、それを忘れること」について、
 あれこれ書いたら、心配する人がいたようですが、
 ほんとうに深刻に悲しいことがあったときには、
 だいたいはそれについて黙っています。
 昨日、「悲しみと、それを忘れること」について、
 書きたくなったのは、プロ野球関係のことからです。
 ものすごく悲しくなったりするのですが、
 そういう日常的な気持ちを動機にして、
 「感じること」や「忘れること」について、書きました。
 
 いちばん言いたかったのは、この部分でした。
 <慰めだとか、気やすめだとか、気ばらしだとか、
  ことによったら神さまのことばだとかも、
  ある意味、見失わせたり忘れさせる道具である。
  そして、ほとんどすべての人間は、
  ちょうどよいほどに弱いものだから、
  見つける以上に、実は見失うことも勘定に入れていて、
  明日も元気で生きられるように調整をしている>。

 ぼく自身の悲しみは、翌日の試合で、
 「もう、希望をもつんじゃねぇぜ!」と完封敗けを
 くらった時点で霧のように消えていきました。
 あとは、どうやったらこんなに弱いチームのくせに、
 クライマックスシリーズ日本シリーズで、
 勝ったりすることができるんだろう、という
 超難問を解くことに精進します。

・ほんとにねぇ、なにかを思いついて、
 「こういうことやったら、いいよねぇ!」なんて
 うれしそうにはしゃいでいるうちはいいんだけど、
 いざ本気でなにかを始めると、
 苦労だの苦難だのがざんざかざんざか押し寄せます。
 「なんでこんなに難しいんだ!」と、なりますが、
 それは、もう、引力の法則みたいなもので。
 やればやるほど、簡単じゃないことがわかってきます。
 仕事だって、勝負事だって、家庭だって、人生だって、
 「簡単ではない」ということについては、みな同じです。
 それを、「逃げずにねばれるか」の連続なんだと思う。
 やめるときの「引き際」と、続けるときの「ねばり」は、
 いっぱしの人は、みんなすごいですよね。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
「引き際」も「ねばり」も、丈夫な体が支えてくれるよね。