藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

どんな人がタイプですか?

と、真正面から問われて返答に窮する。
そういえば、ぴったりとした答えを持ち合わせていないことに気付く。


そういえば、自分の部屋の本棚を、来客に見られることは少なからず恥ずかしい、というのとどこか似ている。
本棚に並ぶ本やマンガは、自分の辿ってきた遍歴そのもので、それを壁面に並べて一覧する、というのはこれまでの自分が本と過ごしてきた時間が一望できている、ということと同じなので、どこか裸を見られるように恥ずかしいのだろう。


ということは、本棚に過去出会った本があるように、これまでに出会った異性が一覧されていれば、それが自分の「好みの一覧」になるのだろうか、とアホなことを考えてしまった。

自分の嗜好から。


ことほどさように、なかなか「自分の好み」をあからさまに話すのは、恥ずかしいものである。
なぜか。
恐らく、そこに「赤裸々な自分の特性」が露出してしまうからだろう。
少女好み、と言えばロリコン!と言われるし、年増好み、と言えばマザコン?と言われるかもしれない。
いずれにせよ、自分の「素の感情」をいたずらに他人に告げるのは、なかなか勇気の要ることだと気付く。


そういうのはまだまだある。
高級なブランド品や、車が好きだ、と言えばそれはそのまま「そういうものを尊ぶ人」という価値観をそのまま表してしまう。
悪いことではないが、なんとなくバツが悪い。
だから、こんどは「自分の嗜好」が自己目的化して、「より高尚なもの」への好奇心が必要なのではないか、という気にすらなる。


何だか脱線。
つまり、その人が「どういう価値観を持っているのか」ということは「どういうことに興味を持っているか」ということで、かなり判明する。
ということは、「趣味は何ですか?」とか「休日はどのように過ごしていますか?」という質問で、大体相手の価値観とか、ライフスタイルとか、嗜好が分かるのである。


「趣味は読書」と書いてある。
当然「どのような本ですか?」と突っ込まれる。
そこで「村上春樹です」というか、「藤沢周平です」というか、「ドラッカーです」というかでずい分印象は違ってくる。


「仕事は何ですか」ということは、もちろん重要だろう。
だけれど、それ以外に「自分の時間をどのように使っている人なのか」ということを聞くことは、何よりもその人の人間性を理解するのには有用なのかもしれない。


あなたのタイプは?
あなたの好きな本や映画は?
好きなスポーツは?
自分では運動する?
休日の過ごし方は?
趣味は?
友人はどんな人?


「自分はコレコレこういう人間である」とくだくだ言うよりも。
こういう二、三の質問に答えるほうが、自分という人間のより客観的なポジションを示すのかもしれない。
意外に、自分は自分のことを分かっていないし、また自分のことを晒さないものである。
恐らく、他人から見れば「それほど」のものでもないのだろうけれど。