藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

複眼的に。

他人の情報を盗んで勝手に公開する犯罪行為。言語道断だ。
前原誠司外相は(中略)強く批判した。

ウィキリークスに最近暴露される各種の情報。
「他人の情報を盗む」というのはそのフレーズだけを取って見れば、そりゃまあ許されない。
けれど、その情報は外交文書とか、政府の親書とか、はたまた戦争中の内部文書とか。

○○さんが裏金をもらっていた、とか▲▲さんが使い込みをしていた、というような瑣末な話ではない。

こうなってくると、前原大臣が言うように「他人の情報を盗んで勝手に公開するのは悪だ」という論理ばかりではないようにも思う。

「他人の情報」ではあるけれど、それは「国家の情報」であり、また本当は国民が知るべき情報かもしれない。

すべての外交情報を公開することは、いろんな政策とか、各国の交渉上好ましくないのかもしれないが、それにしても今の外交や政治は、一般市民にとってはまったくのブラックボックスでしかない。


G20で日本と中国とか、日本とアメリカとか、日本とロシアとかはたまたEUとか、どれ程の話が話題に上ったのかも分からないが、「内密の話をする外交」と「オープンに公開する外交」はどうしても両者が存在し、また段々と情報の公開が求められるのは時代の趨勢だと思う。


いつまでも「外交上の交渉」といいつつ、自国内の国民に何も説明しない統治状態というのは、長続きしないとも思うのである。

いわゆる「体制側、守旧派と言われる人たちは、そろそろ「情報」が昔ほど自分たち固有の特益ではなく、ことデジタル情報は「ある程度の流通は必至である」ということを理解して、それから「一般政治」に当たらないと、ずい分と時代錯誤なマネジメントをしてしまうという恐れがある。

ウィキリークス、というのはその意味では単なる「時代のあだ花」ではなく、今の(ある程度普及した)ネット社会へのフラストレーションの出口を表現しているのではないかとも思う。


ウィキリークスに代表される情報サイトが、今後も単なる「暴露メディア」としての扱いしか受けないのか、それとも「体質改善のための露出メディア」として確立してゆくのかどうかは、すなわち自分たちのネットの使い方とか、マナーとか、ポリシーの問題にかかわってくる。

いずれにせよ、今や「下手な情報統制」は意味をなさず、却って周囲の反発を招く行為にしかならない。

情報の流れをも身につけながら、物事に対する度量が求められているのだと思う。

ウィキリークス暴露「盗んで公開、言語道断」 前原外相
「勝手に他人の情報を盗んで勝手に公開する犯罪行為。言語道断だ」。
前原誠司外相は30日の記者会見で、民間告発サイト「ウィキリークス」が米政府の外交公電を暴露したことを強く批判した。


前原氏は「(公開を)判断するのは(情報を)持っている政府であって、勝手に盗み取って公表することに評価を与える余地はない」と強調。
暴露内容をマスメディアが報じることは「妨げることはできないと思う」と語った。


「日本外務省の現職幹部の名が挙がっている文書もあるが、事実関係を調査するか」との質問には「コメントもしないし、事実関係の調査もしない」。
米側からは外交ルートを通じて事前に説明があったという。(山口博敬)