藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

対峙力。(とっかかる力-その一)


「目標設定力」とかよく耳にする。
「神は乗り越えられる試練しか与えない」という仏教的な言い方もある。が、
これはちょっと結果論的(だと思っている)。
よく成功者、と言われる人が「成功は簡単です。止めなければ必ず成功です。」と言うのに似る。
「乗り越え行動」を止めてしまえば、「壁だった」というだけである。
それはともかく。


買わないくじは当たらない、という。
でもこれとも違う。

「向かう相手」と対峙する力、とでもいうか。

相手を「呑んでかかる」となどいうのに近い。
「のむ」で辞書を引くと「軽んじる・侮る」などとあるが、これとも少し違う。(日本語のニュアンスはかくも微妙ですねぇ)
辛うじて「圧倒する」というのが最も近いだろうか。
そういう力の話。

イメージの力。

逆上がりができない人に、「足をけり上げて」といくら言っても効果がない。しかし「足を後方上45度に向かってけり上げて」というと途端にできるようになる、というアスリートの話がある。

これと同じ。
「イメージ」の問題なのである。
つまり、自分では「うんうん」唸って一所懸命に地面をけり上げているのだけれど、実際に力を入れる方向は「もっと後ろに、もっと遠くにあった」ということである。
そしてその「イメージが塗り替えられた途端」、同じ力で臨んでいたのに急に「出来栄え」が変わってくるのである。

視線の到達点。


プロ野球の(T)選手とお会いした時、「甲子園出場は通過点だと思っていました」と言っていた。
一方、社会人アマで活躍した(D)さんは、「甲子園出場こそが自分の母校と自分の目標でした」とも聞く。

T選手は、ハナから「自分はプロに行って然るべき」と信じ込んでいたそうである。

(つづく)