藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

素材との対決。

ぶらあぼ5月号
舩木篤也さんの連載より。

人がなくても在った自然。人がなくては成らなかった文化。
どちらも「素材」と呼ぶならば、先生、人はこの世に投げ込まれ、素材との対決を強いられますね。
素材の伝承、改変、あるいは破壊。
生とは、要するにそうした営みです。
そんななか、生を真に輝かしいものにしてくれるのは、ただ創造だけではないでしょうか

生は営みであり、その生を真に輝かしいものにするのは、ただ「創造」だけである。

意味深長。
人はそんな創造というこういを、どこかしら無意識に悟り、それを追い求めるのだろうか。

ために、を欠いた創造。

精神は、音という素材から、何かの「ために」音楽を考えだしたのではなく、音楽を創造せずにはいられなかったと考えたい。
そして、音楽ほど「ために」を欠いた創造もないような気がするのです。

音楽は、聴くときには正に「ために」ではなく体の欲求で水を求めるような感覚がある、と以前から感じていた。
それと同様、音楽の創造も「ために」ではないらしい。
「ために」を欠くからこそ美しいのだろうか。
そして優秀な演奏家も、「ために」をなくして演奏をしている、ということになるのだろう。



嬰ハ短調弦楽四重奏曲は、ベートーヴェン最晩年の作であり、異例にもアダージョのフーガで始まる。アウフタクトに続く嬰ロ⇒嬰ハの半音上行は、導音から主音への移行にほかならず、しかもクレッシェンドが施されているので、強い緊張をはらむ。次にくるイ音への落下も、鋭いアクセントを伴って衝撃的。イ音(六度)からは、嬰ト音(五度)へと半音下がるが、先の導音・主音とあわせ、これら二つの半音音程はフーガ主題によく用いられてきたもの。モデルはおそらく、バッハ≪平均律≫第一巻の嬰ハ短調フーガ」

―――なんのために、音楽はあるんかのう。


人がなくても在った自然。人がなくては成らなかった文化。どちらも「素材」と呼ぶならば、先生、人はこの世に投げ込まれ、素材との対決を強いられますね。素材の伝承、改変、あるいは破壊。生とは、要するにそうした営みです。そんななか、生を真に輝かしいものにしてくれるのは、ただ創造だけではないでしょうか。精神は、音という素材から、何かの「ために」音楽を考えだしたのではなく、音楽を創造せずにはいられなかったと考えたい。そして、音楽ほど「ために」を欠いた創造もないような気がするのです。そんな究極の創造世界に、ベートーヴェンは投げ込まれました。少しは、私も?もしそう言えるなら、投げ込んでくれたのは、先生です。先生に心より感謝します。