藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

史上初めての価値観へ

(これまでの目盛りを捨てて)
蛇や昆虫が脱皮するように、これまでの殻を脱ぎ捨てて次の変態を遂げる重要な時期が、二十一世紀なのだろう。

良くも悪くもそんな時代に生まれ合わせたことには、ただただ感謝したい気持ちも強い。
そんなダイナミックな変化を目の当たりにするのは、幕末/明治維新、二次大戦以来のことかもしれない。
とかいう自分もすでに「戦争を知らない大人」の一人だが。

だが一方、そうした「正解のはっきりしない時代」に生きる閉そく感というか、"モヤモヤ"した気持ちは後世の人にはなかなか説明しづらいものだろうな、とも思う。


これまでになく豊かなゆえに、もう「富国強兵」とか「挙国一致」「所得倍増」とかいうスローガンを、だれもが訝る未知の新時代に突入してしまっているのだ。
呆れた"豊かっぷり"ではないか。
「TPPと日本の成長」という論点すら、どこか古臭く感じているのは自分だけではないだろう。

そんな意味では、実は時代の方向性はもうずい分はっきりしていて、「飢えない、争わない、汚れない」そんな「守りの社会」のようなものをこれからは目標としていかねばならない、という気分は日米欧の人たちにはかなり浸透しているのではないだろうか。
スローガンとしては、ずい分保守的で積極性がないように見えるが、だから新しいのである。

先進国のデモとかストライキとか、また政治の混迷とか、国の債務とか、そうした現象はすべて過渡期の混乱なのだと思えば理解もしやすい。

またそれに対処している政治家の「子供っぽい対応」も、初めてのことで狼狽している様子だと思えば理解しやすい。

地球全体が経済的に「縮む過程」で、財テクや債務の保証拡大をいかに施しても、行く先の結果は変わりはしない。

あと30年もすれば、また歴史の教科書は「そんな説明」を分かりやすくしてくれるだろう。

今の「所在なさ」「不透明さ」「不安な気持ち」はすべて新しい方向に向かう時の「方向転換に伴う抵抗」なのだと思えば、むしろそんな時代に居合わせたことを楽しめる余裕も出てくるのではないだろうか。

今を生きながら、今を観察する「傍観者」としてこれからのことも考えてみたいと思うのである。