藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

年末に思ったこと。

もう数十年前のこと。
京セラの稲盛さんが「思念は業を作る」と講演されていた。
業とは、

1 報いを招く前世の行い。
(デジタル大辞泉より)

とある。
「思い」はそれほどのものなのである。

自分たちは、折に触れ「こうなって欲しい」などとよく願う。
それは、明日の天気に「晴れてくれ」というようなものもあれば、「景気よよくなれ」というようなのもある。
ここに「自らの努力」はさほどない。
無責任な「こうあれかし」である。

そういうのは、当たるも八卦、当たらぬも八卦、まああまり上手くゆかないことも多い。
空から公共事業が降ってくるのを待つ、というようなことをしていても、あまり多くは得られないものである。

ではその逆は何か。
それは「こうしたい」という強力な思いである。
やはり「思念は業を作る」のだと思うのである。
そこには、「前世からの何か」をもたらすほど、強い思いがある。
もう、体は滅びて朽ちてしまっていても、なおその思いは残り、精神的なものとなってた受け継がれるのだ。

人の肉体はハードウェアだが、思いとかスピリッツというのは究極のソフトウェアなのかもしれない。

稲盛さんの言いたかったのはそんなことではなかったか、と思う。

あれかし、を考える。

そうすると、方向性は明瞭である。
「こうありたい」という強い思いを持つためには、なぜ「そうありたいか」を突き詰める必要がある。
動機が盤石でないと、その基礎に全身を預ける気にはなれないものだ。
自然、「どうあるべきか」
「どう生活すべきか」
「どう生きるべきか」
という哲学的なテーマにすぐに入り込むことになる。

そうした「強い人生の動機」を考えずして、今の便利な世の中をただ謳歌しているだけでは、却って「強い無力感」に苛まれるのではないだろうか。
物質文明がいくら豊かになっても「幸せ感」はそれほど上がらないのはそんな心の修養が足りないせいに違いないと思う。

そしてようやく、「自分はどうありたいか」をとことん考えることによって、自分の人生の"how to"が開けてくる。

能動的に自分の人生をドライブする、というのはそんな「人生のディレクション」を自分で考え、絞り出し、方向づけることなのではないだろうか。

できれば、自分も先達から「そんな話」を聞きたかった。
けれど、それも「ただ正解を先に聞いたからとて」それが腑に落ちて分かるわけではない、という矛盾をはらむ。
結局自分で考え込むしか、自分の正解は見いだせないものなのだろう。
これからも考え続けたいテーマなのである。