藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

ヘタ夫な私。

唐突だが、皆さんは「自分で自分を見る力」はどの程度あるとお考えだろうか。
最近幾つかの出来事があり、「そんな力こそが、実は人生を決定づける全てではないか」とハタと気づいたのである。

自分というものは、この世に生まれ落ちてから現在まで「ある線上」を歩いて来ている。
直線もあれば曲線も蛇行もあろうが、ともかく「つながった線」の上を歩いてきたわけである。
そしてこの線はこれからも続く。

ところが「自分目線」で歩いている自分には、"「過去の線」と「未来の点線」"というものの認識は極めてしにくい。

「過去の線」の冷静な分析。
「未来の点線の」奔放な仮説。

「もうどうせ大したことないさ」あるいは
「いくらでも、これから次第さ」と、非現実的な"未来"をついつい見てしまうらしい。

自分の身内には「贔屓の引き倒し」というのがあるが、こと「自分自身」には最大の「エゴイズム」というものがある。
つまりは「変わりたくない気持ち」の代表選手、みたいなものである。
自分自身の心が、現実の体をしばる。
こうした「保守精神」は、自分の気持ちの防衛には、最も必要なもので、守りは堅い。
けれど、こと「過去も未来についても」自分を徹底的に客観的に見る、という時には非常に邪魔になるのである。

先日取り上げたさださんのコラムにあった

「精神科の先生にうかがった話ですが、“たかだかの自分の発見”というのが伸びるコツ」だそうである。

自分の力を過信していると、結果「本来の力」も出せず、「自分はたかだかこのくらい」という謙虚な視点は「実力を上回るような」結果を出すのだという。
さもありなん。

音楽などもそう。
経営というのもそういう性質があるかもしれない。
突拍子もない夢、というか妄想ばかりを追って、足許が覚束ない人はよくいるものである。
夢と妄想は似て非なるもの。

今の「ヘタ夫」な自分を意識してこそ、「その先の到達」もあるに違いない。(断)
どうにも抗いようのない現実を見つめて、それからの物ダネなのだ。

愚痴や妄想で、時間をいたずらに使わないようにしたいと思う。