藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

二十世紀の歪み。

関越道を走っていた観光バスが大事故を起こした。
今さら気づいたのだが、ここ数年で、東日本の震災は別にしてもJRの脱線事故原発の管理ミス、工事現場や工場の死亡事故など、大型の事故のニュースが多い。
先の原発の震災後のトリートについては「想定外」という言葉がどこまで世間に(あるいは法的に)通用するか、ということが焦点になったが、まだはっきりとした見解は出ていない。

ただ、「経済的な利益を出す上では、"この程度の安全配慮でよかろう"という線」があったのは確かである。
それは裏返しにすれば「ある程度の安全確保は犠牲にしても利益を出せるようにする」ということである。

ゲームソフトを作ったり、遊技場を経営しているのならともかく。
運輸とか建築とか、いわゆる「インフラ」に関わっている企業が、経済的な利益、いわんや「私的な利潤の確保」に走ったら、これほど恐ろしいものはない。
けれど、一経営者のエゴではなく、例えば観光バスのドライバーの勤務時間や、休憩の取り方や、給与体系などにずんずんと反映してきているのである。

そして震撼するのが、現場のスタッフの「起きると思っていた」というモラルハザードである。
危険で無理があると思われる長距離搬送。

それでも、自分の賃金とか、会社の大勢とか、お客の状況とか、そんな「経済的なこと」を考えればやらざるを得ない。

そして、それを命じているのは管理職と経営陣であり、さらには株主でもある。
株主は「自分は安全を犠牲にしても利益を出せとは言っていない」とエスケイプするかもしれないが、同じ穴の貉であろう。

企業のハラ決めが求められる

結局ことは「インフラに関係する企業かどうか」に限らない。
株主と経営陣と、従業員がいる限りどこにでも問題は発生する。

「無駄な開発投資などせず、配当せよ」とか「資産を有効活用できぬのなら現金化してしまえ」と現代の投資家は平気で言う。

企業を長期的に見て成長させるのか、短期的な利益出しをさせるのか、で同じ「株主」という区域の人たちも言うことが違ってくる。
そろそろ経済市場も、短期利益を狙う資本を呼び込む「投資市場」と、企業の経営にかかわり「経営に参画しながら投資する"経営市場"」に分かれるべきではないだろうか。

投資家と経営者の「目線」が合わぬ状態は、今のような不幸な行き違いが必ず生まれてしまう。
今こそ投資家は、自らの立場を考え直すべきではないだろうか。

「起きると思っていた事故」 TDRでバス運転手に聞く

 「いつか起きると思っていた」「起こるべくして起きた事故」。多くのツアーバスが駐車場で帰りの客を待つ東京ディズニーリゾート(TDR)で、運転手たちは業務の過酷さを口にした。

 関越自動車道で死亡事故をおこしたバスと同じ石川県を前夜に出発、29日早朝に着いた男性(45)は、もう1人の運転手と2時間おきに交代しながら運転してきた。「それでも、事故が起きた時間帯はいつも眠くなる。どれだけ寝ても体のバランスが取れない」

 やはり北陸地方から来た男性(47)は「1人では負担が大きすぎる。2人で交代しないと無理」と話す。しかし「大型連休やお盆は運転手が足りない。ふだんは2人で走っていても、この時期だけは1人で走る会社も出てくるのでは」。

 甲府市から早朝、約40人を運んだ40代の男性は、駐車場に並ぶ関西や北陸地方のナンバーのバスに、運転手が1人でいるのを見かけることがある。「道中の仮眠をどうしているのだろうと思っていた」