藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

成功の法則。

自分たちはよく(自分は特に)、いわゆる成功者の行動から「何か」を学び取ろうとする。
ノーベル賞受賞者の足跡をたどり、そこから「自分のためになる何か」を見つけることは、実は困難だと思うがどうしても興味が向く。

一方最近は同年代の人たちの「挫折本」もよく出版されており、これはこれで興味深いのだけれど。
それはともかく。
山中教授の分水嶺とも見える「研究をあきらめるか否か」のシーン。
奈良先端科学技術大学院大の助教授職への応募の述懐。

選考委員だった安田国雄・前学長(70)は「数年後の結果が読めそうなテーマが多い中、挑戦的だった。ある質問に『できます』だけでなく、『やります』と答えたのは山中さんだけ。人柄とやる気で彼がベストだった」。

この言葉。
まるで投資家が集まってベンチャー起業家のアイデアをコンテストしているのと寸分違わない。

「挑戦的」「やります」「人柄とやる気で彼がベスト」

研究もビジネスも成功のコツは同じだろうか。
いやこれは必要条件であって十分ではないのだろう。
ただし、そうしてリスクへ立ち向かい、挑戦するものにだけ「次のステージへ行く権利」が与えられるのに違いない。

次の舞台で成功するとは、まったく限らないのだが、しかし一方「そうした姿勢こそ」が、たとえ幾度かの失敗をくぐっても「いつかは何かの結果を遺す」という気がするのである。

基本の姿勢を忘れてはならない。(戒)

asahi.comより>
挫折こそ万能の父 手術下手「ジャマナカ」
 高校では柔道、大学ではラグビー、いまもフルマラソンを走る。人情味が厚く、講演では笑いも起こる。50歳の若さでノーベル賞受賞が決まった山中伸弥・京都大教授はまるで「スーパーマン」。しかし、快挙への道のりは平坦(へいたん)ではなかった。
手術が下手で整形外科医を断念。研究がうまくいかず、それもあきらめかけた――。京都大教授の山中伸弥さん(50)は、数々の挫折を味わってきた。

■手術中「すまん」
メスを持つ手は血まみれだった。神戸大医学部を卒業して研修医になったばかりの25歳のころ。初めての手術だった。上手な医師なら10分ほどで終わる良性腫瘍(しゅよう)の摘出が、1時間たっても終わらない。手術台の患者に謝った。「すまん」

患者は、中学からの親友、平田修一さん(50)だった。顔は布で覆われていたが、局部麻酔で声は聞こえる。「すまんて、どうゆうことや? ほんま頼むで……」

山中さんは講演のたび、この時のことを話す。「とにかく手術が下手で。それで整形外科医になるのをあきらめました」。口の悪い先輩からは、邪魔ばかりで役立たずの「ジャマナカ」と呼ばれた。

中学以降、柔道とラグビーで10回以上骨折した。整形外科医はスポーツ選手を復活させる。そんな明るいイメージだった。ところが、実際には重度のリウマチや脊髄(せきずい)損傷など、治療法すらない患者があふれている。「研究者なら、新薬や治療法を開発できるかも知れない」

研究者への転身を考えた。大阪市立大大学院で薬理学を学び、米グラッドストーン研究所に留学。ノーベル賞級の学者らとざっくばらんに討論できる自由な研究所だった。そこで始めたES細胞(胚(はい)性幹細胞)の研究が、iPS細胞の作製につながっていく。

帰国後、再び壁にぶち当たった。助手として、研究よりマウスの世話に追われる日々。飼育専門の職員がいる米国と比較にならなかった。ある日、研究室から学校帰りの娘が見えた。「俺は何でネズミのケージ交換ばかりしてるんだろう」。情けなく思えた。

朝6時に起きていたのが、9時になっても起きられない。研究室に行くのがおっくうで、閉じこもりがちになった。「もう、臨床医に戻ったら?」。見かねた妻知佳さんが言った。

■背水の大風呂敷
「これでだめなら、研究をあきらめる決心がつく」と1999年に応募したのが、奈良先端科学技術大学院大の助教授の職だった。ほかの応募者はみな、実績も経験もある人ばかり。「背水の陣」の山中さんは大風呂敷を広げた。「ES細胞の特性を解明する」

選考委員だった安田国雄・前学長(70)は「数年後の結果が読めそうなテーマが多い中、挑戦的だった。ある質問に『できます』だけでなく、『やります』と答えたのは山中さんだけ。人柄とやる気で彼がベストだった」。

翌春、後に右腕となる現京大講師の高橋和利さん(34)が大学院生として研究室に入ってきた。教授のいない小さい研究室だが、自由に研究できる環境が整い、「万能細胞」作りの山を登り始めた。

3年後、ES細胞の万能性に必要な遺伝子などを突き止め、英科学誌ネイチャーと米医学誌セルに発表。京大教授となり、2006年にマウスのiPS細胞作りに成功した。翌年にヒトでも成し遂げ、「山」を一気に駆け上がった。

時計を分解しては叱られ、アルコールランプを倒し机の上を火の海にした少年時代、尊敬するのは父・章三郎さんだった。大阪府東大阪市でミシンの部品工場を営んでいた。「父の手が生む部品は、目につかない隠れた場所のものでも美しかった」。そんな父に言われた。「お前は商売に向いてない。医者になれ」

研修医になった時、章三郎さんが入院した。注射を打つと、「下手だなぁ」と痛がりながらもうれしそうに笑った。章三郎さんが亡くなったのは、研究者に転じる前。「父は天国で僕が医者を続けていると思っているはず。いつか会った時に報告できるよう、早く実際の治療に結びつけたい」